大久保利通と岩倉具視を急接近させた難敵の正体 幕末の実力者たちですら手を焼いた男とは?

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しかし、岩倉はあきらめない。もう1つの得意技「列参」を強行する。もともと、岩倉は88人の下級公家を率いて、九条関白の邸宅に押しかけて変革を迫った「廷臣八十八卿列参事件」が、政界へのデビューと言ってよい。今回もまた同じ手法に出ようと考えたのである。

慶応2(1866)年7月20日、家茂が21歳で病死すると、岩倉は変革のチャンスとばかりに「天下一新策」を起草。8月30日には、自身は岩倉村に蟄居しながら、大原重徳を中心とした公家22人を朝廷に押しかけさせた。

参内した大原らは、孝明天皇も列座した席で、朝廷政治の改革を訴えた。これを「廷臣二十二卿列参事件」と呼ぶ。しかし、岩倉が主導したといわれる、この列参運動は失敗に終わる。そもそもの参加人数が少なく、迫力もない。孝明天皇はこう激怒して、公家22人を謹慎処分にした。

「なぜ真に国家の大事であった条約勅許の際には忠言をしなかったのか。今日徒党を組んで列参するのは不敬の至りである」

孝明天皇からすれば、重大な条約勅許のときには動かず、今になって朝廷に秩序を乱す行動に出たのが、許せなかったのである。

思いは理解していた孝明天皇

もっとも、孝明天皇も岩倉の尊王の思いは理解している。岩倉はこの騒動の前に、孝明天皇に対して「全国合同策密奏書」という政治意見書を提出している。そこでは「実ニ朕ノ不徳、政令其当ヲ失ヒ、統御其宜ニ違ヒ候ヨリ致ス所」との勅を出すべきだ、としている。これは国内の混乱をあえて「自らの不徳」として、責任を引き受けたうえで政治の一新を担うべしと、孝明天皇に提案をしたものである。

だが、朝廷はもはや関白や公家のためだけのものではない。今や薩摩藩など有力藩のことも考えなければならないし、慶喜も朝廷政治で重要なポジションに座っている。

いくら尊王を掲げられて改革をあおられても「今は内部でゴタゴタしている場合ではない……」というのが、孝明天皇の本音だろう。岩倉は孝明天皇の腹を完全に読み違えてしまったのである。

岩倉の人間力が発揮されるには、対面が必要である。また、どれだけ情報を十分に把握していても、村に閉じこもっていては、現場の空気はわからない。復活しようとした矢先に挫折した策略家の岩倉。燃え上がったかに見えた炎は、また小さな種火に戻っていくことになった。

慶応2年12月5日(1867年1月10日)、徳川慶喜が将軍に就任する。家茂の死が公表されてから、実に3カ月以上が経っていた。幕府や諸藩から慶喜支持の声が十分に高まったタイミングを見計らってからの登板であった。

慶喜の将軍就任を促したのは、ほかならぬ孝明天皇である。時には対立することもあったが、慶喜は朝廷を重視していたし、孝明天皇もまたあくまでも幕府体制を維持しての政権運営を望んでいた。

36歳の孝明天皇と30歳の徳川慶喜による、本格的な公武合体体制が作られる――。岩倉はもちろん、誰もがそう思ったことだろう。しかし、孝明天皇は、慶喜が将軍に就任して20日後に突然の死を迎えることになる。

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