良策のはずが墓穴「岩倉具視」に学ぶ想定外の怖さ いくら先見性が凄くても自分の没落は見通せず
意欲満々に久光が近衛邸に参上すると、議奏の中山忠能や正親町三条実愛、そして岩倉具視と大原重徳が迎え入れた。その場で、久光には「過激な行動が噂される浪士の鎮静化にあたるように」と天皇の内命が下されている。久光からすれば、第一段階クリアである。
そうして薩摩藩と朝廷が接近するなかで、文久2(1862)年5月6日、薩摩藩の大久保利通が久光に命じられて、岩倉邸にやってきた。大久保自身が「少しずつ押し切って建白を行った」と岩倉との初対面の日を振り返っている。建白の内容は「幕政の改革を幕府に迫るために、勅使を派遣したい」というものだった。
だが、岩倉はどうも気が進まなかったようだ。勅使に自分の名が候補に挙がると、岩倉はこれを辞退。代わりに大原重徳が派遣されることになった。岩倉が辞退したのは、将軍の家茂に強引に誓書を書かせてから、まだ日が浅いことと無関係ではないだろう。自分が同行することで、思わぬ抵抗に遭うことを危惧したのかもしれない。
さらにいえば、岩倉の代わりに勅使となった大原は剛直な男だった。大原を前面に立たせて自分は影に回るのが、今回については良かろうと岩倉は判断したようだ。岩倉は、久光の意見をもとに幕府に改革を迫る要望書を起案。孝明天皇と協議のうえ、幕府への要望として、大原と久光の一行に託されることとなった。
徳川慶喜を後見人にする要望に幕府は抵抗
幕府の人事に朝廷が口を挟んで指示に従わせることなど、これまでありえなかったことだ。幕府側も大いに抵抗した。とくに家茂と将軍の座を争った徳川慶喜を後見人にすることには、なかなか首を縦に振らなかったようだ(『愚痴多いけどクール「徳川慶喜」ずば抜けた慧眼』参照)。
というのも、慶喜は腹がなかなか読めない人物で、何を言いだすかわからないところがあった。その変幻自在さに、のちに薩摩藩も岩倉も困らされることになるのだが、そんなことはつゆも知らず、慶喜を強引に政権の中枢にねじこもうとしたのである。
その結果、大原の豪胆さもあり、薩摩藩の要望が見事に通り、一橋慶喜は将軍後見職に、松平春嶽は政事総裁職に据えることに成功した。薩摩藩は将来有望たる慶喜を擁立することによって幕政に影響力を持とうとし、朝廷の岩倉や大原は、それこそが公武合体を推進させる道だと信じて、薩摩藩に手を貸した格好となった。
朝廷中心の公武合体の実現に向けて、まさに岩倉の思いどおりに事は運んだといってよいだろう。しかし、冒頭のナポレオンの言葉にあるように、絶好調なときほど気をつけなければならないのが、人生である。このとき、すでに岩倉の足元はグラグラと揺らぎつつあった。
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