敵前逃亡の愚将?「徳川慶喜」人知れぬ苦悩と葛藤 卓越した分析力を持っているのに迷走したワケ
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。
独特の政治的勘を持っていた慶喜
つくづくとらえどころのない人物である。徳川慶喜のことだ。
大政奉還で自ら朝廷に政権を返してしまい、倒幕できなくなって困った薩摩や長州らが「王政復古の大号令」でクーデターを起こせば、今度はひょいと大坂城へと下ってしまう。倒幕派も朝廷と同じで、急に政権を渡されても、国家運営するほどの財政的基盤もなければ、領地もない。
慶喜は京によく目が届く大阪の地に移り、新政府のお手並みを拝見しながら、朝廷に働きかけて薩摩の排除に動く。その一方でイギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア、プロシアなど、外国との関係を強化して「君主は自分である」と対外的にアピールして、新しい政治体制づくりを目論んでいた。
権力者にもかかわらず、権力をあっさりと手放し、それでいて、実権を決して奪われることはない慶喜。知れば知るほど、独特な政治的勘を持つ人物だったと実感する。
ただ、慶喜は自分が見えている景色を他人と共有しようとしない。だから、周囲からは行き当たりばったりのように見えて、ついていくのも不安になる。京をあっさり明け渡して、大坂城に下ったときも、会桑両藩兵や幕府将士たちはいらだち、「なぜ薩長をたたきつぶさないのか」と不満を募らせていた。当然の感情だろう。
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