敵前逃亡の愚将?「徳川慶喜」人知れぬ苦悩と葛藤

卓越した分析力を持っているのに迷走したワケ

そんな中、1月3日の午後3時ごろに、鳥羽・伏見の戦いの緒戦が開かれる。合図のラッパとともに、鳥羽街道の左右から薩摩の鉄砲隊が発射。幕府側は、どこでどう戦うかの戦略も曖昧だった。不意の攻撃を受けてパニックとなり、死傷者数が続出した。

対する薩摩軍は無傷に近い。さらに大久保は対幕戦を好まない岩倉具視に盛んに接触。幕府軍が「朝敵」となるように水面下で働きかけていた。

いきなり敗戦の報が、大坂城へ届けられると、慶喜は大いに狼狽したという。もともと徳川方には「薩摩憎し」という思いはあったとしても、慶喜のもとで、一致団結していたわけではない。強い戦闘意欲があったのは、会津藩兵のみだったとさえいわれている。これでは、いくら数が多くても、烏合の衆に過ぎない。

「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかった」

のちに西郷はそう語ったというが、兵力で勝る徳川方が緒戦で薩摩に敗れた影響は大きかった。淀藩にいたっては戦況を聞いて城門を閉鎖。裏切って徳川軍を締め出してしまう。

錦の旗を掲げた薩摩軍、慶喜の動揺は最高潮に

こんなことならば、やはり直接対決は避けるべきだったんじゃないのか――。

慶喜の動揺は、薩摩軍が「錦の旗」を掲げたと聞いて最高潮となる。「錦の旗」は「官軍」、つまり「天皇の軍」であることを意味している。慶喜は自分が「朝敵」となってしまったことをこう嘆いたという。

「朝廷に対して、刃向かうべき意思は露ばかりもなかったのに、まちがって賊名を負うに至ったのが悲しい」

幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない――。時に慶喜を縛り、時に慶喜の行動指針となった父からの家訓が、頭の中で何度も繰り返されたことだろう。

その後の慶喜の行動は、支離滅裂である。1月5日には、大坂城にいた将士たちに「大坂城を死守すべし」と得意の熱弁を振るったかと思えば、その翌日、慶喜はあろうことか、大坂城から逃亡してしまう。

側近や老中、会津藩主の松平容保や、桑名藩主の松平定敬らも巻き込んで、開陽丸で江戸へ退却。前代未聞の敵前逃亡となった。突然、総大将に見捨てられた兵たちは悲惨である。残された会桑両藩兵や幕臣らはどうすることもできずに、散り散りとなった。

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