敵前逃亡の愚将?「徳川慶喜」人知れぬ苦悩と葛藤 卓越した分析力を持っているのに迷走したワケ

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浪士を取り締まっていた庄内藩の強硬派が、そんな挑発行為に乗ってしまう。薩摩藩邸の焼き討ちを決行。その報を受けた大坂城内は一気に「打倒薩摩」へと勢いづいていく。先に紹介した慶喜と板倉のやりとりは、焼き討ちの一報が入る前だったが、そのときですら、慶喜がいくら状況説明しても、板倉はこう吐き捨てるように言うのみだった。

「将士らは激昂が甚だしいので、制止できるとは思えません。どこまでも上様が彼らの願いを拒むのであれば、上様をお刺ししても脱走しかねない勢いでございまするぞ」

まるで「この腰抜けが」といわんばかりである。慶喜は「主人に刃を向けることはないだろうが、脱走は食い止められないだろう」と、ため息をついた。もはや制御不可能である。ましてや、江戸で軍事衝突が起きてしまった今となっては、主流派の勢いを慶喜が止めることは不可能だった。

薩摩藩との戦いに突入

慶応4(1868)年元日、「討薩の表」という文書が徳川側から発せられる。「薩摩藩のふるまいは、朝廷の真意とは考えられない。島津家の好臣どもの陰謀にちがいない」と、怒りに満ちた文面である。名義は慶喜だが、どこまで内容に関与したかは説が分かれている。いずれにしろ、慶喜は主戦派に押し切られたのだろう。

大目付の滝川具挙(たきがわ・ともたか)に「討薩の表」を持たせて上洛させながら、1月2日の夕方には、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍隊を砲撃。その夜には、大阪の薩摩藩邸を攻撃している。

慶喜はといえば、大坂城にとどまりながら、各国の公使に書を送り、薩摩藩と戦闘状態に入ったことを告げた。戦うからには、負けるわけにはいかない。徳川方は1万5000の兵で、薩長の兵力は多くみても5000程度である。兵力の有利さを自分に言い聞かせながら、慶喜も打倒、薩摩へと気持ちを切り替えていったのだろう。

薩摩も、もちろん準備を整えていた。大久保は西郷への手紙で、こう決意を語っている。

「今日に至って戦争に及ばなかったら、皇国の事はこれっきりで水の泡となるでしょう」

かたや慶喜には、薩摩ほどの気迫はなかった。京へ進軍するにもかかわらず、慶喜は「決して兵端を開くことのように」と厳命している。天皇の前での戦闘を避けようとするあまり、先発部隊は十分に戦闘準備を整えていなかった。

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