求心力ない将軍「徳川慶喜」が見せた渾身の外交術 就任直前に大失態を犯しても逆風には強い

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江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(左)とその後ろ盾になっていた孝明天皇(写真:近現代PL/アフロ)
「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推しはかることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載の第7回は、ついに将軍を引き受けることになった心境の変化と、逆境の中での大胆な方向転換についてお送りする。
<第6回までのあらすじ>
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。
優れた開国論を心に秘めていた慶喜。攘夷など非現実的だと思いながらも、幕府と朝廷の板挟みに苦しむ(第3回)。いったんは幕府を離れて、参与会議の一員となるが、薩摩の政治的野心にうんざりし、暴言を吐いて会議を解体。朝廷を守る禁裏御守衛総督に就任し、長州の撃退に成功する(第4回)。
だが幕府による第一次長州征伐では、慶喜は蚊帳の外に置かれたうえに、おひざ元である水戸で天狗党が挙兵し、その対応に追われた(第5回)。第一次長州征伐に勝利した幕府は、第二次長州征伐で長州藩にとどめを刺そうとするが、まさかの敗戦のなか、家茂は病死。それでも慶喜は将軍職を拒み、徳川宗家を継ぐことだけを了承したのだった(第6回)。

再び長州への出兵を画策

慶応2年12月5日(1867年1月10日)、将軍宣下を受けて、徳川慶喜は二条城で15代将軍に就任した。

盟友であった松平慶永(春嶽)が何度、説得しても「将軍職を引き受けずに、徳川宗家を相続するだけならよい」と、断固として将軍職を拒絶した慶喜。にもかかわらず、なぜ将軍を引き受けたのか。その経緯を『昔夢会筆記』で慶喜はこう振り返っている。

「いったん(徳川宗家を)相続するや、老中などはまた将軍職も受けるべきだと強く請うてくるし、外国などの関係もあって結局引き受けるしかなかった」

だが、実際はこんな単純な経緯ではなかった。なにしろ、徳川宗家を相続してから、将軍に就任するまで、約4カ月もかかっている。その間には、慶喜がわざわざ触れたくはない、大失態があった。

将軍は空位のまま、徳川宗家のみを引き継いだ慶喜。それだけでも周囲には理解しがたいことだったが、今度は亡き家茂に代わって長州征伐に出兵すると言い出した。

第二次長州征伐で幕府が惨敗したことを思えば、あまりにも無謀だ。裏で長州と通じていた薩摩は「いっさいわかり難し」と、慶喜の行動は理解不能だとしている。慶喜を推す松平慶永ですらも、これには猛反対した。

だが、慶喜にしてみれば、将軍に就任し幕府を立て直すにしろ、幕府と異なる新体制を作るにしろ、長州征伐という結果を出して、自分に反対する勢力を封じなければ、という思いがあった。

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