求心力ない将軍「徳川慶喜」が見せた渾身の外交術 就任直前に大失態を犯しても逆風には強い
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。
再び長州への出兵を画策
慶応2年12月5日(1867年1月10日)、将軍宣下を受けて、徳川慶喜は二条城で15代将軍に就任した。
盟友であった松平慶永(春嶽)が何度、説得しても「将軍職を引き受けずに、徳川宗家を相続するだけならよい」と、断固として将軍職を拒絶した慶喜。にもかかわらず、なぜ将軍を引き受けたのか。その経緯を『昔夢会筆記』で慶喜はこう振り返っている。
「いったん(徳川宗家を)相続するや、老中などはまた将軍職も受けるべきだと強く請うてくるし、外国などの関係もあって結局引き受けるしかなかった」
だが、実際はこんな単純な経緯ではなかった。なにしろ、徳川宗家を相続してから、将軍に就任するまで、約4カ月もかかっている。その間には、慶喜がわざわざ触れたくはない、大失態があった。
将軍は空位のまま、徳川宗家のみを引き継いだ慶喜。それだけでも周囲には理解しがたいことだったが、今度は亡き家茂に代わって長州征伐に出兵すると言い出した。
第二次長州征伐で幕府が惨敗したことを思えば、あまりにも無謀だ。裏で長州と通じていた薩摩は「いっさいわかり難し」と、慶喜の行動は理解不能だとしている。慶喜を推す松平慶永ですらも、これには猛反対した。
だが、慶喜にしてみれば、将軍に就任し幕府を立て直すにしろ、幕府と異なる新体制を作るにしろ、長州征伐という結果を出して、自分に反対する勢力を封じなければ、という思いがあった。
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