求心力ない将軍「徳川慶喜」が見せた渾身の外交術 就任直前に大失態を犯しても逆風には強い

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少し整理しよう。家茂が死去して「慶喜こそ次期将軍に」と推したのは、慶永のほか、孝明天皇、松平容保、松平定敬、松平茂承、徳川慶勝、板倉勝静、二条関白らなど。一方で「慶喜以外を将軍に」という声も少なくなかった。家定の正室である天璋院と、家茂の正室である和宮は、田安家の亀之助に将軍職に就いてほしいと、老中の板倉勝静に密書を送っている。

また、幕臣や大奥にも「慶喜だけは嫌だ」という勢力が存在した。江戸や大阪在住の幕臣のなかには、慶喜の暗殺を目論む者もいたというから、穏やかではない。

将軍候補をざっと挙げてみても、尾張藩では、元藩主である徳川慶勝や徳川茂徳、また、現藩主である徳川義宜らがいたし、そのほかにも、紀州藩主の徳川茂承、田安家の徳川慶頼や徳川家達(亀之助)、水戸藩主の徳川慶篤などが考えられ、なかには就任意欲にあふれる者もいたという。

おひざ元の水戸藩でも不人気

慶喜が最も気にしたのは、おひざ元の水戸藩での不人気である。攘夷主義者側と、それに対抗する藩主側と、どちらか側にとっても、慶喜は信用できなかった。

そのため、家茂が死去すると、水戸藩関係者はすぐに尾張藩主の徳川義宜、紀州藩主の松平茂承、前津山藩主の松平斉民らを次期将軍としてリストアップしている。「慶喜以外ならば、誰でもよい」というメッセージにほかならない。

攘夷派に対する慶喜自身の中途半端な対応が各方面で軋轢を招いたとはいえ、諸外国から通商を迫られ、薩摩や長州などの有力大名が台頭する中で、これだけ反発を買っていれば、一致団結からはほど遠い。それでいて、御三卿である一橋家は、自前の兵力を持っていないため、兵を調達するには協力関係が必要不可欠である。

まさに、八方ふさがりとはこのことだ。慶喜からすれば、将軍をたとえ引き受けたくても、快諾しかねる状況だったと言えるだろう。

だからこそ、慶喜は反対派を刺激しないように将軍就任はいったん見送り、とりあえず徳川宗家のみを継いで、長州征伐に賭けようとした。

周囲からは止められたが、自信はあった。慶喜からすれば、「禁門の変」であれだけの働きをしながらも、幕府による長州征伐からは外されてしまい、不完全燃焼に終わっている。自分が立てば、諸藩も奮起するはず。過去の成功体験から、そんな思いを捨てられなかった。

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