求心力ない将軍「徳川慶喜」が見せた渾身の外交術 就任直前に大失態を犯しても逆風には強い

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張り切った慶喜は、禁裏御守衛総督を辞任して、旗本軍を銃隊に改編。また、交流を持っていたフランス公使のロッシュに、軍事支援も要請した。さらに孝明天皇からも支持を得て、意欲満々に準備を進めていく。

ところが、長州征伐に参加していた肥後藩や久留米藩が九州諸藩の戦線から離脱したという情報を得て、慶喜は急に不安になってきた。そのうえ、不運にも台風が上陸しため、悪天候の中で攻めなければならない。武器の運送もままならない思わぬ事態に直面し、慶喜は慶永に泣きついて、出兵中止へと舵を切らざるをえなくなる。

この慶喜の体たらくには、長州征伐に期待した朝廷や会津藩を大いに失望させた。渋沢栄一が著した『徳川慶喜公伝』では「関白も宮も中心には慊焉(けんえん)の情を抱き、人に対して不平を漏らしたこともしばしばなり」と、慶喜への不平不満が高まった様子を記している。

もともと長州征伐に反対していた公家にいたっては「方針を覆して、朝廷を愚弄した」と慶喜を罵倒したという。求心力を高めるために奮起したのに失敗し、かえって不興を買うところが、何とも慶喜らしい。

ならば、幕府とはまったく別の新しい体制を作るべしと、慶永の意向を取り入れて、慶喜は主要諸侯たちを集めようとする。だが、朝廷から29人に諸藩召集の勅命が発せられるも、上京したのはたったの5人。裏で召集しているのは慶喜であることは明らかな以上、長州征伐に無残に失敗して、将軍ですらない人物に従うわけもない。

残された道は「将軍就任」しかなかった

できるだけ自分に有利な状況で、将軍職を引き受けるつもりが、完全に裏目に出た慶喜。もはや、残された道はただ1つ。将軍を引き受けることで、影響力を少しでも取り戻すしかなかった。

「慶喜が将軍を拒み続けたのは政略で、ポーズにすぎなかった」

「いや、政略ではなく、本当にやりたくなかったのだ」

慶喜の将軍就任については、そんな両極端の見解に分かれがちだが、どちらもある意味、正解だといえるだろう。慶喜は局面に応じて判断を下すので、どちらの顔も使い分けることができた。

ただ、政略という意味で言えば「断り続けて仕方なく引き受けることで、自分の価値を高めようとした」などという余裕はなかったように思う。慶喜を取り巻く状況は、もっと厳しいものだったという点は、強調しておきたい。家茂の死後、将軍職が空位となった約4カ月は、慶喜にとって思い出したくない挫折の日々だったといえるだろう。

まさに「紆余曲折」という言葉がぴったりだが、ついに将軍に就任した慶喜。ただでさえ前途多難だが、最大の後ろ盾をいきなり失うことになる。

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