大政奉還も実は緻密な戦略「徳川慶喜」驚く突破力 倒幕に動く薩長を困らせた「先手先手の対応」

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徳川慶喜は二条城で重臣たちに大政奉還を告げた(写真:近現代PL/アフロ)
「名君」か「暗君」か、評価が大きく分かれるのが、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜である。慶喜の行動は真意を推しはかることが難しく、性格も一筋縄ではいかない。それが、評価を難しくする要因の1つであり、人間「徳川慶喜」の魅力といってもよいだろう。その素顔に迫る短期連載の第9回は、大政奉還を断行したかと思えば、クーデターをも受け流す政略家、慶喜について紹介する。
<第8回までのあらすじ>
江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、徳川家と朝廷の両方の血筋を受け、その聡明さから、みなの期待を一身に背負って育った。将軍になどなりたくなかった慶喜だが(第1回)、若き将軍、家茂の後見職の座に就くことになり、政権の中枢に据えられていく(第2回)。
優れた開国論を心に秘めていた慶喜。攘夷など非現実的だと思いながらも、幕府と朝廷の板挟みに苦しむ(第3回)。いったんは幕府を離れて、参与会議の一員となるが、薩摩の政治的野心にうんざりし、暴言を吐いて会議を解体。朝廷を守る禁裏守衛総督に就任し、長州の撃退に成功する(第4回)。
だが幕府による第一次長州征伐では、慶喜は蚊帳の外に置かれたうえに、お膝元である水戸で天狗党が挙兵し、その対応に追われた(第5回)。第二次長州征伐では、幕府は長州藩に敗北して、家茂は病死(第6回)。ようやく将軍職を引き受けた慶喜は、最大の後ろ盾だった孝明天皇を亡くすが、4カ国の公使を相手に外交手腕を見せて開国へと舵を切る(第7回)。大胆な幕政改革にも着手するなど、意外なリーダーシップを見せるが、幕府を立て直すことは難しく、朝廷に政権を返す大政奉還を踏み切ることとなった(第8回)。

大政奉還への不満や怒りは織り込み済み

「未曾有のご英断、誠に感服に堪えず」

徳川慶喜が意外にも大政奉還に応じる姿勢を見せると、提案した土佐藩の後藤象二郎らは、そう口にした。一方で、不満を持った者も多くいた。江戸から入れ替わり立ち替わりに老中が慶喜のもとに現れては、口々にこう責められたと、慶喜自身が振り返っている(『昔夢会筆記』)。

「なぜ、政権を返してしまったのですか。今になって徳川家を潰してしまっては、東照宮に対しても申し訳がたちませんぞ!」

東照宮とは、家康のことである。初代に顔向けができないと批判されたら堪えそうなものだが、慶喜は「関東の者は総じて時勢に疎く、すこぶる説得に困った」と、どこ吹く風である。老中だけではなく、会津藩、桑名藩の両藩や幕臣を中心にさまざまな方面から、大政奉還への不満や怒りの声が上がるが、そんなことは織り込み済みだ。

このとき慶喜が注視していたのはただ一点、薩長の動きである。慶喜が二条城の二の丸御殿に、老中などを集めて政権返還について演説したのは、慶応3(1867)年10月12日。翌13日に在京諸藩の重臣に通告し、さらにその翌日の14日に、慶喜は大政奉還の上表文を朝廷に提出している。

後藤が幕府に建白書を提出したのが10月3日であることを考えると、かなりのスピード感である。老中や在京諸藩の重臣に通告したときも、慶喜の勢いに気圧されて、その場では真正面から反論した者がいなかったというから、相当な決意をもって断行したことがわかる。

さらに慶喜が朝廷に強く求めたため、その翌日の15日には受理されている。朝廷にすれば、望んでもいない政権を無理やり渡された格好だが、慶喜は急いでいた。実際のところ、もしこの決断が一日でも遅れていたら、状況は大きく変わっていただろう。

次ページそのとき薩長は何をしていた?
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