はたして、実際はどうなったのか。久光は実子の藩主、茂久に筆をとらせて、誠忠組への呼びかけを行っている。
「余のいたらぬところを助けて、藩の名を汚さず誠忠を尽くしてくれるよう。ひとえに頼みたいと思う」
異例中の異例といえる、藩主直々の呼びかけである。誠忠組の過激派も涙に暮れたという。慎重さと大胆さは矛盾しない。そんなことを大久保の生き方は教えてくれているようである。
大久保が囲碁を学んだことに対する誤解
ただ、このエピソードは「大久保が久光に近づくために囲碁を初めて習った」と曲解されることがある。しかし、それは明らかに誤解である。嘉永元(1848)年1月4日、大久保は日記にこんなことを書いている。
「午後2時前、牧野が訪ねて来て3回勝負で囲碁を打ったが、私は負けてしまった」
「牧野」とは、大久保の従弟にあたる「牧野喜平次」のこと。このときに大久保は17歳なので、それなりに囲碁の経験があったことになる。大久保は数少ない趣味である囲碁を通して、久光に取り入ることに成功。本来、直に会えるような身分ではなかったが、高い壁を越えて、面会を果たすことになる。
ともに薩摩藩の権力者に積極的に近づいて引き上げてもらうことで、出世した西郷と大久保。何かと西郷と正反対だとされる大久保だが、むしろ西郷のやり方を見習い、名をあげたといえよう。
そして、慎重の上にも慎重を期しながらも……いや、慎重の上に慎重を期すからこそ、大胆な行動に出る傾向が大久保にはあり、ここが勝負どころだと判断すれば、西郷をもしのぐ行動力を見せたのである。
(第4回につづく)
【参考文献】
大久保利通『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家 (日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一著、守屋淳翻訳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
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