胃が弱く、やせっぽちだった大久保。だが、おとなしい少年というわけではなかった。いたずらが好きで大人を困らせることも多かったようだ。
大久保少年が、家族と入来温泉に訪れたときのことである。大久保はこっそりと熱泉の噴射口へ向かっては、湯をせき止めて水風呂にしたり、逆に、湯の温度を調節する水のほうをせき止めて熱湯風呂にしたりして、入浴客を驚かせた。ついには、砂や小石まで混ぜ始めて、いたずらが番頭に発覚。怒った番頭に追いかけられると、大久保は森へすばやく逃げ込んでいる。
また、桜島にある古里温泉を訪れたときには、こんなこともあった。案内人の彦作が「桜島では、山で溶岩石を投げると神罰が下る」と伝えると、大久保はわざと、頂上から岩を投げ落とし、みなが驚く姿を見て喜んだ。なかなか人を食った少年である。
その後は、彦作の労をねぎらおうと、大久保自身が薩摩汁の給仕を務めている。度を越したいたずらを反省したのかと思いきや、薩摩汁を何杯も何杯も彦作に与えては、困惑する姿を見て楽しんだという。
合理的な現実主義者の礎を築いた「郷中教育」
クールな印象が強い大久保も、少年時代は無邪気ないたずら坊主だった。ただ、神罰を恐れなかったことは、合理主義の政治家として名を馳せる、のちの姿を想像させる。
思えば、大蔵省で大久保とともに仕事をした渋沢栄一は、青年時代にインチキ祈祷師のうそを見抜いて撃退している。国家財政に対する認識の違いから、大久保と渋沢は決裂するが、合理的な現実主義者という点では共通していたといえよう。
腕力に乏しくいたずら好きの大久保は、明らかに「頭脳タイプ」である。ひたすら読書に励んで、学問にのめり込んでいく。
薩摩藩の郷中教育では、武術だけではなく、講習や習字、そして、軍書読みなども教え込まれた。なかでもユニークなのは「詮議」である。詮議とは、いわゆるディベートのこと。若手同士、もしくは、若手から年少者へ「問い」が投げかけられて、みんなの前で即答していくというものだ。
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