「約束が履行されなければ、将軍も自分も辞職のほかはない」
朝廷は二者択一を迫られることになった。予定どおりに長州征討の勅命を下して、薩摩藩を敵に回すか。あるいは勅命を取りやめて、慶喜と将軍らに見放されてしまうか。
もちろん、いずれも実際に実行されるかはわからない。「脅しに過ぎない」と一笑に付することもできるなかで、選ぶときに重視するのは「より自分が困らないのはどちらか」ということ。保守的な朝廷では特にその傾向があった。
その観点からみれば、薩摩藩が「朝敵」になることよりも、慶喜や将軍に辞められるほうが、朝廷の公家たちからすれば避けたい事態だった。なぜならば、諸外国が日本と交渉しようと迫ってきている。幕府にへそを曲げられて、かつ慶喜まで江戸に帰ってしまえば、朝廷が自分たちで、諸外国との対応をしなければならなくなってしまう。
「自分が困ることだけは避けたい」という公家の真理を、慶喜はよくわかっていたのだろう。慶喜は大久保の思惑を打ち砕くことに成功し、長州征討は予定どおりに行われることになった。
事の顛末を聞いた大久保はこう言い捨てて、退出したという。
「今後、国内は大いに乱れるでしょう。国家のために誠に遺憾です」
嫌になって放り出すことはしない大久保
こんなことをやっている場合ではないのに、よりどうしようもない方向へと事態がどんどん進む。末期状態の組織にありがちなことだ。
そうなると、実力のある者ほどあきれ果てて、ただその場から立ち去るのが常だが、大久保は「嫌になって放り出す」ということはしない性分である。そして、混迷の幕末期においては特に、そんな粘り腰が大いに役立つことになるのだった。
奔走もむなしく、慶喜にしてやられた大久保だったが、反撃のチャンスはすぐにやってきた。ある事件が起き、朝廷と幕府が対立し始めたのだ。
事件は、長州征討のために家茂が大阪に入ってきたタイミングで起きた。アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4カ国の公使が突然、艦隊を率いて兵庫に入港。「条約の勅許」と「神戸港の開港」を要求してきたのである。
4カ国とは、かつて大老だった井伊直弼が朝廷の許可を得ずに、すでに通商条約を締結している。にもかかわらず、そのとき約束した神戸港の開港がいつまでも実現しない。幕府に不信感を募らせた諸外国が「朝廷にもきちんと通商条約を認めさせろ。そして神戸港を開け」と要求してきたのだ。
大久保が危惧していた「諸外国が迫りくるなか、日本国内で分裂している場合ではない」という事態がまさに起きたことになる。
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