薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
イギリスの要求を突っぱねた薩摩藩
大久保利通は「薩摩藩が朝廷と組み、幕府に改革を促す」という積年の夢をついに叶えた。しかし、京に向かう道中で遭遇したイギリス人を薩摩藩士が斬り殺してしまうという、思わぬ事件が発生する。世に言う「生麦事件」である。
当然、イギリス側は猛抗議している。幕府に対して、謝罪と賠償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しても、下手人の逮捕および処刑と慰謝料2万5000ポンドの支払いを迫っている。
イギリスを敵に回したくない幕府がすぐに支払いに応じる一方で、薩摩藩は抵抗を示した。久光に命じられた大久保はこんな報告書を書いている。いわば、公式見解といってよいだろう。
「そもそも大名の行列は作法が厳しい。たとえ国内の人でも無礼をはたらけば切り捨てにする習慣である。いわんや外国人であれば尚更だ」
こんな言い分が通るはずもないが、幕府のように妥協してしまえば、一気に付け込まれると考えたのだろう。あくまでも突っぱねたことで、イギリス代理公使のニールは、鹿児島に戦艦を派遣すること決意。薩英戦争の引き金が、このときに引かれることになった。
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