ただ、イギリスは薩摩藩に怒りをにじませつつも、江戸幕府がもはや統治不能に陥っている日本の内情にも、ひそかに目をつけていたことだろう。
大久保は強気な姿勢を見せながらも、その一方で、薩摩藩士を2人ばかり関東に送って、幕府と交渉させつつ、外国の動向を探らせている。このあたりの抜かりなさは、いかにも大久保らしい。
もちろん、「生麦事件」を起こした直後は、そんな展開になるとはわかっていない。事件を知った奉行から報告を求められるも、半ばそれを無視して、そのまま京に向かった久光一行。京に入ると、様子が一変していることに気づく。「外国を打ち払うべし」という攘夷のムードが、最高潮に達していたのである。
そんなタイミングで、薩摩藩はイギリス人を斬り殺すということをやってのけて、京都に入ったことになる。「攘夷をよくぞ決行した!」と熱狂的に迎えられたが、まったく本意ではなかった。そのときの戸惑いを、大久保は日記で吐露している。
「言葉にしようがない。まるで夢のなかにいるようだ」
長州藩をはじめとした尊王攘夷派が台頭
大局観を持つ大久保でも、いったい何が起きているかわからなかった。しかし、すべては薩摩藩が暴力で朝廷や幕府を従わせようとしたことに、原因があった。
「薩摩があれだけ言うことを聞かせられるのならば、自分たちだって」と長州藩をはじめとした尊王攘夷派が、負けじと台頭。朝廷の攘夷派に同調しながら、他藩の尊王攘夷派と手を組んで、京で一大勢力を築くことになったのである。
尊王攘夷派がわが物顔で振る舞うのをみて、久光らの一行は怒りと失望を抱く。もはや、京がこんな状態ではどうしようもないといったん帰藩している。
ただ、そうは言っても、静観しているわけにはいかない。実際に、久光が退いたことで、尊王攘夷派はさらに勢いづいていく。朝廷は三条実美を勅使として幕府に派遣。「攘夷を実行すべし」と督促までしている。幕府の権威は地に落ちようとしていた。
尊王攘夷派の暴挙を鎮静化すべく、鹿児島から京に向かったのは、やはり大久保であった。
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