強硬な幕府が真っ青に「大久保利通」怖すぎる一言 「身の程知らず」であっても、のし上がれた理由

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大久保利通の素顔に迫る特集第9回です(写真:chang/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第9回は、自分たちが中心となって幕政改革を行うために大久保が何をしたのかについてお届けする。
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<第8回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回第5回)。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる(第6回)。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功(第7回)。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた(第8回)。

「身の程知らず」だった薩摩藩

「身の程知らず」という言葉を、筆者はどうにも好きになれない。自分の身の丈以上のことをせずして、いかにして事を成せるというのだろうか。

大久保利通の同志である西郷隆盛は、島津久光に「あなたはジゴロ(田舎者)だから」と暴言を吐いて上洛計画に異を唱え、結果的には島流しになっている。「無位無官の久光が京に上ったとて、自分が敬愛する斉彬の代わりはできない」というのが、西郷の本意だった。

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つまりは、「身の程を知れ」ということだが、西郷はもちろん、斉彬とて中央からみれば藩主だろうが、身の程知らずの「ジゴロ」あることには変わりない。

いや、というよりも、外様でありながら、中央政治に影響力を持とうとした薩摩藩全体が「身の程知らず」だといえよう。

その先駆けともいえるのが、8代藩主の島津重豪だ。11代藩主の斉彬にとっては曽祖父にあたる人物である。

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