倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第7回は、薩摩藩の「国父」といわれる同藩の事実上の最高権力者、島津久光と大久保利通の共通点についてお届けする。
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<第6回までのあらすじ>
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。
幼いときは胃が弱くやせっぽちだった大久保利通。武術はできずとも、薩摩藩の郷中教育によって後に政治家として活躍する素地を形作った(第1回)。
21歳のときに「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動によって、父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に趣味の囲碁を通じて接近し、取り入ることに成功(第3回)。島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように久光を説得し、実現させた(第4回、第5回)。
ところが、西郷は薩摩藩の国父である島津久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しにあった(第6回)。
西郷の暴言に耐えた島津久光
何かと誤解が多く不人気な大久保利通だが、大久保を出世させた薩摩藩の国父、島津久光もまた、あまりよいイメージでは語られないことが多い。
大久保が人気者の西郷と比べられるように、久光は英明な藩主だった兄の斉彬と比べられてしまうため、どうしても小人物に見えてしまうようだ。「藩主の父」という微妙なポジションも、久光が軽んじられるゆえんだろう。
「田舎者なので斉彬の代わりなどできない」
初対面の西郷隆盛に罵られて、腹いせに島流しにした小心者――。ややもすれば、そんなイメージを持たれてしまっている久光。
だが、西郷から面罵されても、久光はその場では激情に身を任せぬように耐えた。島流しにしたのは、その後も西郷が命令を無視し、下関で久光を待ち合流することなく、勝手に京阪方面へと向かったからである。
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