西郷が向かった先では、若き薩摩藩士が集まる組織「精忠組」の過激派が、京で尊王攘夷の志士たちと合流しようとしていた。彼らは、久光の上洛計画に乗じて、挙兵しようと目論んでいたようだ。西郷は過激派の暴発を止めるために、久光の命令を無視して、彼らのもとへと急いだというが、真相はわからない。
少なくとも久光は、西郷が過激派と合流しに行ったとみなした。そうでなくても、これから中央に進出しようとする大事なタイミングである。西郷の勝手な行動を見過ごせなかったのは、トップとして妥当な判断ではないだろうか。
上洛にあたって、久光は「精忠組」における過激派にも、きちんとメッセージを送っている。「安政5年の通商条約の締結以来、尊王攘夷を唱える志士たちが跋扈している」としながら、こんな危惧を通達していた。
「藩士のなかでも彼らと私的に交わる者がいるらしいが、そうした軽挙妄動に同調しては薩摩藩に災いをもたらす。結局は国内が乱れて、諸外国に侵略の機会を与えることになるだろう」
大局観を持って行動することを促した久光は「よって過激な尊攘派の志士たちと交わることを禁じる」とし、「断れない場合は藩のほうで対応する」とまで言っている。これだけ敏感になっていた事案に、独断でつっこんでいった西郷を、久光はやはり放置するわけにはいかなかったのだ。
意外にも事は順調に進んだ
暴走しがちな西郷を島流しにした久光は文久2(1862)
西郷から田舎者呼ばわりされた久光だったが、意外にも京の地で、事は順調に運んだ。京都の鎮撫にあたるようにと、朝廷から命が下されている。まさに当初の狙いどおりである。
西郷の指摘どおりにならなかった理由の1つは、亡き斉彬への西郷の思いが強すぎるがゆえに、久光を軽視しすぎていたことが挙げられるだろう。
西郷からすれば、かつて「お由良騒動」において、尊敬する斉彬と藩主の座を争ったのが、久光である。その斉彬が亡くなったからといって、久光にその代わりなど務まらないと、強く信じても無理はない。だが、久光の意外な実行力は、この上洛だけではなく、何度となく発揮されることになる。
久光の上洛にあたって、薩摩藩に近い近衛家が調整役として尽力したことも、朝廷を動かすことにつながったようだ。
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