だが、朝廷が薩摩藩に京都の守護を命じた最大の理由は、そのいずれでもない。「公家が尊王攘夷の志士たちをそれだけ恐れた」からである。
自己の主張のために、放火や暗殺も辞さない荒くれ者たちを、押さえつける手段を朝廷は持ちえなかった。日に日に治安が悪くなるなか、久光が率いる薩摩の藩兵に頼るほかなかったのである。
また、久光としても、尊王攘夷派の暴発は見過ごすわけにはいかなかった。各地から集まった過激派のメンバーには、精忠組に属する有馬新七や森山新五右衛門ら薩摩藩士も含まれていたからだ。彼らは寺田屋に集まっては、朝廷の守護に回った久光に失望。幕府寄りの関白である九条尚久を暗殺し、幕府の京都所司代を襲撃しようと計画した。
もはや少しの時間の猶予も許されない。京都の薩摩藩邸に入って1週間後、早くも久光は動く。同じ精忠組の奈良原喜八郎らを派遣して、過激派の説得に向かわせている。
同志であれば、ギリギリのところで心が通い、思いとどまることもあるだろう。そんな期待を持ちながらも、久光は情に流されることはなく、こう命じることも忘れなかった。
「もし、有馬らが命に背くようなら始末せよ」
その結果、奈良原の説得も空しく、有馬たちの意思は変わらず、同士討ちという惨劇を招くこととなった。この「寺田屋事件」では、実に9人が命を落としている。そのうち8人は尊攘派で、1人は説得役であった。残りの藩士たちは、空しく故郷へと帰らされている。
久光の毅然とした態度が朝廷の信用につながった
西郷や大久保がかつてはリーダーを務めた、若者の政治組織「精忠組」。兵力を持たなかった久光が機動隊としたこともあったが、無残な同士討ちで、その影響力は一気に失われることとなった。
藩内の藩士であっても、無法者は容赦なく処罰する――。
そんな久光の毅然とした態度は、朝廷から大きな信用を得ることになった。いや、恐怖を植えつけたといってもよいだろう。過激派をあっさりと鎮圧した、この兵力を何とか味方につけなければならない。朝廷と薩摩は今ここに、急接近することとなった。
西郷の懸念はどこへやら、久光はその高い実行力をもって、いよいよ幕政改革に乗り出すことになる。具体的な要望は「一橋慶喜を将軍後見職にし、松平春嶽を大老に就任させる」ということだ。
慶喜はその聡明さから、亡き斉彬が次期将軍に推しながらも叶わず、幼少の家茂が将軍に就任している。ならば、せめて将軍の後見職に慶喜を押し込んで、自分たちの影響下に、幕政を刷新しようと目論んだのである。
同時に、斉彬とともに慶喜を推した福井前藩主の松平春獄を大老に据えようとも考えた。慶喜を孤立させないという狙いもあったのだろう。この人事を通すために、朝廷からの勅使に公卿の大原重徳が選ばれている。では、薩摩藩からは誰が行くか。
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