しかし、弱体化が著しい幕府にも意地があった。ついこの間、「公武合体についての風評が流れている」という理由で、公家の岩倉具視に理不尽にも謝罪させられたばかりである。そして今度は何かと思えば、人事にまで口を出してきた。
実のところ、幕府は薩摩藩がこのような人事変革を迫ってくるという情報を、事前にキャッチしていた。だからこそ、家茂は将軍に就任以来、田安家当主の徳川慶頼を後見職に据えていたが、17歳を機に後見職自体を廃止した。「将軍様にはもう後見職は必要ありません」と示しておけば、慶喜が押し込まれることもないだろうと考えたのである。
この身の程知らずが……そんな胸中の声が聞こえてきそうである。対峙した老中たちは、江戸に乗り込んできた久光や大久保のことを、さぞ苦々しく思ったに違いない。幕閣たちは、勅命の受け入れを20日間にもわたって、拒み続けた。
大久保にとっても、幕府の頑迷さは予想以上だったことだろう。大久保には、かつて同じような経験があった。久光の上洛する前の下準備で、大久保は公家にまったく相手にされなかったのである。
失意のなか帰藩した大久保は「やはり西郷が必要だ」という認識を新たにして、久光にそう強調した。だが、その西郷も今や再び島に流されており、頼ることはできない。
もはやあのときの私ではない――。そういわんばかりに、大久保は強引な手に打って出る。
あからさまな恫喝をした大久保
あるとき、老中の板倉勝静と脇坂安宅が談判しようと、勅使の大原重徳の宿へと訪れた際のことだ。老中たちからしても、このような勅命は受け入れられないので、大原と話し合って諦めてもらおうとしたのだろう。
このタイミングを大久保は見逃さなかった。中山尚之助とともに、大原の宿所を訪ねている。そして、大胆にも大原にこう告げたのだという。
「もし、老中たちが勅命を受け入れなければ、ここから生きて帰さないつもりである」
あからさまな恫喝である。大久保はずっと考えていたのだろう。上洛前の下準備ではあれほどうまくいかなかった公家への工作が、久光が上洛したときには、なぜ打って変わって、うまくいったのか。
もちろん、大久保自身が場数を踏んだこともあるだろう。だが、それ以上に、工作を後支えしたのは、精忠組の過激派が主導した「寺田屋事件」である。あのとき、公家たちは直面する暴力に怯えきって、薩摩藩を頼った。久光はそれに応えて、武力で鎮圧。朝廷との新たな関係を築くことに成功した。
朝廷の公家たちにはあったのは、薩摩藩の主義主張への「信頼感」ではない。現実的な暴力にどうすることもできない「無力感」である。有力藩に頼らざるをえない現実がそのとき露わになった。
「身の程知らず」がのし上がるには、それ相応のやり方がある――。大久保の恫喝は、見事なほどに効果を発揮した。老中たちは顔色をさっと変えて、あっさりと勅命を受け入れることになったのである。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら