酒豪で豪快な性格で知られた重豪は、藩主としても大胆な改革を行っている。職制や諸規定を制定して、従来の簡素な藩治機構から、近世的な体制に移行しよう試みた。
また文化レベルを上げるべく、文化施設を藩内に次々と創設。言葉や容貌、エチケットについても矯正を命じている。ジゴロから脱却して、中央からみても恥ずかしくない薩摩藩へと変貌させようとしたのである。
それらの改革は簡単には実を結ばなかったが、政略結婚では大きな結果を残す。重豪はまだ幼い娘の茂姫を、一橋治済の長男である4歳の豊千代のもとへ嫁がせていた。
そんなとき、第10代将軍の徳川家治が4人の子どもにめぐまれながらも、みな早世してしまう。そこで豊千代が家斉の養子に入り、期せずして次期将軍に就いた。妻の茂姫の運命は一転し、大奥に入って将軍の御台所、つまり、将軍の妻としての教育が施されることとなったのである。
家斉が将軍となると、重豪は将軍外戚として権勢を振るった。豪華な高輪の屋敷に移り住み、「高輪下馬将軍」と称されたほどであった。
まさに「身の程知らず」の極みだが、重豪が藩主として薩摩藩にもたらした恩恵は大きい。幕府に働きかけることで、琉球貿易で得た中国産品を長崎で販売させてもよい、と認めさせている。逼迫した薩摩藩の財政を立て直すため、重豪は先頭を切って、道なき道を進んだといえよう。
薩摩藩きっての身の程知らず「大久保利通」
そして時は流れて、斉彬も西郷も「身の程知らず」だったがゆえに行動を起こし、中央政治に影響力を持とうとした。斉彬は志半ばで病に倒れてしまったが、その遺志を久光が継ぎ、上洛に成功。「幕府に改革を迫り、薩摩藩の影響力を高める」という積年の夢をついに叶えようとしていた。
そのために、今またもう1人、薩摩藩きっての「身の程知らず」が、幕府を動かしてやろうと江戸に乗り込んできた。大久保利通である。
勅命、つまり天皇の命令として、幕府に改革を訴えるのは、あくまでも勅使の大原重徳である。だが、勅命といえども、その実態は天皇の意思ではなく薩摩藩、つまり、久光と大久保であることは、誰の目にも明らかである。久光は1000人もの兵を引き連れて、大原勅使に随行して江戸に入っていく。具体的な目的は、幕府に次のような人事改革をのませることだ。
「一橋慶喜を将軍後見職とし、松平慶永を大老として幕政を改革すること」
聡明な慶喜を擁立することこそが、自分たち薩摩藩が中央に影響力を持つ道筋になる。斉彬はそう考えて、久光と大久保がその遺志を受け継いだのである。
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