英国に戦争ふっかけた「薩摩」大健闘した意外戦略 青二才と揶揄された「大久保利通」の実力を証明

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大久保利通の素顔に迫る連載第11回です(写真:南天/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第11回は、薩英戦争における大久保の立ち回りについてお届けする。
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<第10回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回第5回)。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる(第6回)。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功(第7回)。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた(第8回)。得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲う(第9回)が、実務能力の高さをいかんなく発揮し、キーマンとして頭角を現し始める(第10回)。

イギリスの要求を突っぱねた薩摩藩

「あんな二才に、御側役がつとまるのか?」

江戸と京を行ったり来たりして調整に駆け回った大久保利通。帰藩して、島津久光によって御側役(おそばやく)という重役ポストに取り立てられると、藩内ではそんな声も上がった。

薩摩藩では、青少年を対象に独特の「郷中教育」が行われていることは、連載の第1回で書いた。郷中では、青少年を14歳までの「稚児」(ちご)と15歳以上の「二才」(にせ)に分けている。

「二才」は24~25歳までの若者のことをいうので、大久保はあてはまらないが、要は「あんな若造で大丈夫か?」と言いたいのだろう。「この青二才め」と嫉妬交じりの反発を大久保は受けることになった。

のちの大久保の活躍を知っている私たちからすれば何とも滑稽だが、大久保が「御小姓与」(おんこしょうぐみ)という下から2番目の下級武士出身だということを踏まえれば、周囲が戸惑うのも無理はない。薩摩藩始まって以来の大出世だった。

藩主の父という立場ながら、国父として実権を握る久光は、藩内からの批判もはねかえして、この人事を強行している。久光は、ともすれば「ジゴロ(田舎者)とバカにしてきた西郷に腹を立てて、報復として島流しにした器量の狭い男」というイメージで語られるが、大久保を見出して重用した点では、優れたリーダーだといえるのではないだろうか。

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