薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
イギリスの要求を突っぱねた薩摩藩
「あんな二才に、御側役がつとまるのか?」
江戸と京を行ったり来たりして調整に駆け回った大久保利通。帰藩して、島津久光によって御側役(おそばやく)という重役ポストに取り立てられると、藩内ではそんな声も上がった。
薩摩藩では、青少年を対象に独特の「郷中教育」が行われていることは、連載の第1回で書いた。郷中では、青少年を14歳までの「稚児」(ちご)と15歳以上の「二才」(にせ)に分けている。
「二才」は24~25歳までの若者のことをいうので、大久保はあてはまらないが、要は「あんな若造で大丈夫か?」と言いたいのだろう。「この青二才め」と嫉妬交じりの反発を大久保は受けることになった。
のちの大久保の活躍を知っている私たちからすれば何とも滑稽だが、大久保が「御小姓与」(おんこしょうぐみ)という下から2番目の下級武士出身だということを踏まえれば、周囲が戸惑うのも無理はない。薩摩藩始まって以来の大出世だった。
藩主の父という立場ながら、国父として実権を握る久光は、藩内からの批判もはねかえして、この人事を強行している。久光は、ともすれば「ジゴロ(田舎者)とバカにしてきた西郷に腹を立てて、報復として島流しにした器量の狭い男」というイメージで語られるが、大久保を見出して重用した点では、優れたリーダーだといえるのではないだろうか。
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