大久保は久光の後ろ盾を得ながら、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる京の情勢を見極めようとしていた。藩内からの嫉妬など一顧だにしなかっただろう。まったくそれどころではなかったからである。
将軍の上洛が避けられなくなった今、いかにすれば、幕府が朝廷からの無理な攘夷を押し付けられずに済むかを、大久保はひたすら思案していた。
やがて「将軍が上洛する前に、尊王攘夷に抗う有力者たちで話し合い、方針を決める」という、大久保プランが実行に移される。近衛忠熙、中山忠能、松平慶永らの要請を受けて、久光は上京。このとき、大久保は久光の留守を任されて、藩地に残っている。
というのも、大久保には、ほかにも対応しなければならない重要事項があった。薩摩藩士がイギリス人を斬りつけた「生麦事件」の対応である。
文久3(1863年)年6月、横浜に停泊していたイギリス海軍の軍艦7隻が、鹿児島湾に侵入。犯人の処刑と被害者への賠償金の支払いを求められた。だが、薩摩藩はのらりくらりとかわしている。
「事件の真相をよく調べたうえで、賠償金の支払いの可否を決定する。犯人については、すでに逃亡してしまったため、もし捕獲できればこちらで処罰する」
これでは実質、何も回答していないに等しく、イギリスが納得するわけがない。怒ったイギリス艦隊が薩摩藩の船3隻を収奪すると、薩摩藩はただちに砲撃を開始する。かくして「薩英戦争」と呼ばれる戦端の火蓋が切られることとなった。
状況を複雑にしたお互いの誤解
それにしても、なぜ薩摩藩はこれだけ強硬な姿勢をとったのか。「幕府のように、相手のいいなりになるわけにはいかない」というプライドもあったが、そもそもイギリスと薩摩の間に誤解があったことも状況をより複雑にさせた。
当初、薩摩藩は幕府から「イギリスは次の3つの要求を行っている」と伝えられていた。
「償金を差し出すべし」
「三浪(久光)の首級を差し出すべし」
「薩州へ軍艦を指向けるべし」
目を引くのは2つ目の要求である。久光の首を差し出すことなどできるわけがない。退路を断たれた薩摩藩は、イギリスを迎え撃つべく、実弾を用いた砲撃訓練を開始する。
だが実は、イギリスからの要求を日本語に訳すときに、慌てて訳したせいか、幕府の首脳が意味を取り違えてしまっていた。イギリスが処刑を望んだのは生麦事件を起こした犯人であり、久光の首など求めてはいなかったのである。
その真相に薩摩藩が気づいたのは、イギリスの艦隊が鹿児島へ到着し、要求を綴った書状の正しい日本語訳を受け取ったときであった。すでに戦闘モードに入っている薩摩藩としては、もはや引き返すことは難しかったのである。
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