薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
絶望を知る者ほど苦境に強い
一難去って、また一難。目まぐるしく変わる状況にも心が折れることなく、現実が少しでも改善する方向に手を打ち続ける。激動の幕末においては、特にそんな粘り腰が必要だったらしい。
薩摩藩の大久保利通は取り巻く情勢の変化をとらえて「今、何をすべきか」を常に考えて実行に移した。
薩摩藩が朝廷と手を組んで幕府に改革案をのませたのは、もはや遠い昔のようだった。今や京では尊王攘夷の嵐が吹き荒れている。間の悪いことに、薩摩藩の田中新兵衛が公卿の姉小路公知を暗殺してしまい、薩摩藩は皇居九門への出入りも禁じられてしまう。
あれだけ苦労して作った朝廷とのパイプが台無しになったうえに、生麦事件の影響で、大国イギリスと一戦を交えることになったのだから、泣きっ面に蜂とはこのことだろう。
だが、想定外の事態になったとき、人生の絶望を知るものほど強い。大久保は、父が薩摩藩主のお家騒動に巻き込まれて謹慎処分となり、一家全体が貧苦にあえいだ過去を持つ(第2回参照)。そのころは、今こうして自分が出世するなど、夢物語でしかなかった。
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