天皇の意向も時に無視「大久保利通」政治力の凄み つねに冷静、チャンスでも易々とは動かない

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大久保利通(左)の命令により薩英戦争の第1弾が発射された鹿児島の天保山砲台跡(左写真:iLand/PIXTA、右写真:東奔西走/PIXTA)
倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第12回は、つねに冷静沈着な大久保の「政局の読み方」についてお届けする。
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<第11回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回第5回)。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる(第6回)。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功(第7回)。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた(第8回)。得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲う(第9回)が、実務能力の高さをいかんなく発揮(第10回)し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せる(第11回)。

絶望を知る者ほど苦境に強い

一難去って、また一難。目まぐるしく変わる状況にも心が折れることなく、現実が少しでも改善する方向に手を打ち続ける。激動の幕末においては、特にそんな粘り腰が必要だったらしい。

薩摩藩の大久保利通は取り巻く情勢の変化をとらえて「今、何をすべきか」を常に考えて実行に移した。

薩摩藩が朝廷と手を組んで幕府に改革案をのませたのは、もはや遠い昔のようだった。今や京では尊王攘夷の嵐が吹き荒れている。間の悪いことに、薩摩藩の田中新兵衛が公卿の姉小路公知を暗殺してしまい、薩摩藩は皇居九門への出入りも禁じられてしまう。

あれだけ苦労して作った朝廷とのパイプが台無しになったうえに、生麦事件の影響で、大国イギリスと一戦を交えることになったのだから、泣きっ面に蜂とはこのことだろう。

だが、想定外の事態になったとき、人生の絶望を知るものほど強い。大久保は、父が薩摩藩主のお家騒動に巻き込まれて謹慎処分となり、一家全体が貧苦にあえいだ過去を持つ(第2回参照)。そのころは、今こうして自分が出世するなど、夢物語でしかなかった。

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