薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
偏見だらけのトンデモ奇襲計画
大国イギリスが、江戸幕府ではなく、1つの藩にすぎない薩摩藩と戦火を交えた「薩英戦争」。現代の私たちの感覚からすれば、あまりに無謀な気がしてしまうが、当時もそれは同じだった。そもそもイギリスは威嚇目的で軍艦を鹿児島へ向かわせただけで、戦争になるとは夢にも思っておらず、軍のなかには観光気分の者さえいた。
完全に油断しているイギリス軍に向かって、大久保利通の指示により薩摩藩が砲撃を開始。奇襲攻撃が功を奏して、序盤から有利な展開で戦闘を運ぶことができた。
これまで戦争に向けて準備をしてきた成果といえそうだが、開戦に至るまでには幾多の試行錯誤があり、とんでもないゲリラ計画もなかにはあった。イギリスを迎え撃つにあたって、薩摩藩内では、こんな奇策が提案されたという。
「外国人は牛を食べるらしいから、牛を集めておびき寄せる」「外国人は足の踵がないらしいから、上陸したところを後ろから押し倒す」
外国人に対する偏見がすさまじく失笑するほかないが、「まともにやって勝てる相手ではない」という認識は正しい。議論を重ねた結果、イギリスに一泡吹かせるべく、あるゲリラ作戦が決行されることとなった。それが「スイカ売り決死隊」である。
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