倒幕を果たして明治新政府の成立に大きく貢献した、大久保利通。新政府では中心人物として一大改革に尽力し、日本近代化の礎を築いた。
しかし、その実績とは裏腹に、大久保はすこぶる不人気な人物でもある。「他人を支配する独裁者」「冷酷なリアリスト」「融通の利かない権力者」……。こんなイメージすら持たれているようだ。薩摩藩で幼少期をともにした同志の西郷隆盛が、死後も国民から英雄として慕われ続けたのとは対照的である。
大久保利通は、はたしてどんな人物だったのか。その実像を探る連載(毎週日曜日に配信予定)第14回は、薩摩藩が倒幕へと傾いた背景についてお届けする。
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<第13回までのあらすじ>
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
ところが、戻ってきた西郷は久光の上洛計画に反対。勝手な行動をとり、再び島流しとなる(第6回)。一方、久光は朝廷の信用を得ることに成功(第7回)。大久保は朝廷と手を組んで江戸幕府に改革を迫るため、朝廷側のキーマンである岩倉具視に「勅使派遣」を提案。それが受け入れられ、勅使には豪胆な公卿として知られる大原重徳が選ばれた(第8回)。得意満面な大久保を「生麦事件」という不測の事態が襲う(第9回)が、実務能力の高さをいかんなく発揮(第10回)し、その後の薩英戦争でも意外な健闘を見せ(第11回、第12回)、引き分けに持ち込んだ。勢いに乗る薩摩藩。だが、その前に徳川慶喜が立ちふさがる(第13回)。
島津久光に「天下の大愚物」と言い放った徳川慶喜
「この3人は天下の大愚物なのに、宮さまはなぜご信用あそばすのですか?」
ベロンベロンに酔っぱらった徳川慶喜を見て、薩摩藩の島津久光は信じられない心持ちだったに違いない。この男が、これまで薩摩藩が「聡明な次期将軍」として擁立してきた人物なのか。久光から伝え聞いた大久保利通も同じ失望を味わったことだろう。
事件は、中川宮邸で宴席を開いたときに起きた。慶喜が突然、前越前藩主の松平慶永(春獄)、前宇和島藩主の伊達宗城、そして島津久光のことを「天下の大愚物」と喝破したのである。
いったい、何が起きたというのか。
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