薩摩藩の郷中教育によって政治家として活躍する素地を形作った大久保利通(第1回)。21歳のときに父が島流しになり、貧苦にあえいだ(第2回)が、処分が解かれると、急逝した薩摩藩主・島津斉彬の弟、久光に取り入り(第3回)、島流しにあっていた西郷隆盛が戻ってこられるように説得、実現させた(第4回、第5回)。
時を見定めてから西郷の復帰に動いた大久保
「世の中をうまくわたるのに大切なのは、タイミングをつかむことである。順序を誤れば、受け入れられることなく、誤解を与え、失敗に終わってしまう。なすべきタイミングがあるということを知っておくべきだ」
鎌倉時代末期に吉田兼好が『徒然草』で書いた一節だ。まさに、薩摩藩の大久保利通が、西郷隆盛を2度目の島流しから復帰させるにあたって、実行したことである。
西郷は、薩摩藩の国父である島津久光に「あなたは田舎者だから」と暴言を吐いたうえに、命令も無視して、徳之島に流されている。徳之島で75日間を過ごしたのちには、さらに南西へ70キロ離れた沖永良部島に配流。ここでは過酷な監獄生活を余儀なくされた。
久光の怒りがどれほどのものだったか。『島津久光公実紀 第一』には、西郷の島流しについて、こんなふうに記されている(現代語訳は筆者)。
「主君にそむく者であり、死罪を言い渡してもおかしくはないところを減罪し、一生帰って来られない流罪とすることを決めた」
大罪人扱いの西郷を復帰させるのは、久光に重宝されている大久保であっても、容易なことではない。大久保は慎重にそのときを見定めていたが、ついに久光の説得に動く。きっかけは、薩英戦争である。
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