大国イギリス相手に何とか引き分けに持ち込めた理由の1つに、若手藩士たちのグループ「精忠組」の活躍があった。西郷の弟である西郷従道や従弟にあたる大山巌をはじめ、精忠組に属する若者たちに、薩摩藩は救われたといっても過言ではない。
そんな彼らが期待したのが、かつて前藩主の島津斉彬のもとで働き、京でその名を馳せた、西郷の復帰である。久光からしてみれば、長州を京都から追い出した今、薩摩藩が中央で主導権を握る大きなチャンスである。そんなときに藩内での不協和音は避けたい。加えて、これから薩摩藩が果たそうとする大命を思えば、人材はどれだけいても足りないくらいだ。
そんな1つひとつの状況を冷静に見極めたうえで、大久保は久光を粘り強く説得する。どうしても西郷を復帰させたくなかった久光も、とうとう折れざるをえなかった。
銀のキセルを強くかみしめた久光
「左右みな西郷を賢なりというか。然らば愚昧の久光独り之を遮るは公論にあらず」
みながそこまで「西郷が賢明だ」と言うならば自分だけがそれを遮るわけにはいかない……と久光も観念した。「太守公におうかがいをたてよ」と久光は息子である藩主の忠義にはかるようにと、お達しを出している。
『大西郷全集』に収載されている「西郷隆盛伝」によると、このときに久光が口にくわえていた銀のキセルをあまりに強くかみしめたので、歯形がくっきりと残ったという。大久保に外堀を埋められる格好で、久光は西郷の復帰を渋々、認めることとなった。
西郷の復帰が実現した背景について「期待した参与会議が空中分解し、久光が意気消沈したために押し切られた」とする文献もあるが、時系列からいって誤りだろう。泥酔した徳川慶喜の暴挙によって参与会議がぶち壊しになったのは、元治元(1864)年2月16日である(前回記事参照)。西郷の復帰が認められたのは元治元年1月なので、つじつまが合わない。
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