元治元(1864年)年7月19日、長州藩が約2000もの兵で京都を取り囲んだ。長州藩は「八月十八日政変による処分の撤回」と「松平容保を京都から追放すること」の2つを朝廷に求めた。久光も大久保も4月の時点で鹿児島に帰っており、京での諸事は薩摩藩家老の小松帯刀と西郷に託されていた。
長州藩の暴挙に、当然動くべきは、京を守る禁裏御守衛総督に就いた、徳川慶喜である。当時の京では、一橋家当主の慶喜に加えて、京都守護職を務めた会津藩主の松平容保と、京都所司代を務めた松平定敬の3人で「一会桑政権」という体制を作っていた。孝明天皇も、一会桑政権が中心となって長州藩を撃退してくれることを期待した。
しかし、長州藩への対応について、一会桑政権内でも分裂してしまう。足並みを乱した原因は、またもや慶喜である。慶喜は京を守る立場にありながら、長州を討つことに消極的で、あくまでも説得によって兵を引き返してもらおうと試みた。
慶喜は、長州藩主の毛利敬親と定広の親子とは、手紙のやりとりをする間柄である。また、水戸藩から多くの兵士を借りており、その大半は尊王攘夷派だ。「尊王」を掲げながらも、朝廷にないがしろにされている長州藩に対して、慶喜はむしろ同情的だった。
「長州と対決すべし」と掛け合った西郷
このままでは、長州藩が再び京を占拠してしまう。見かねた小松帯刀と西郷隆盛は、鹿児島に急報して藩兵の派遣を要請。選りすぐりの450人の兵が鹿児島から京に到着するのを待ってから、在京の諸藩をまとめたうえで、慶喜に「長州と対決すべし」と掛け合っている。
孝明天皇から長州征伐を命じる朝命が下されたこともあり、慶喜は武力で撃退することを決意。その2日後に、御所の京都蛤御門付近で、長州藩兵と会津と桑名藩兵が衝突。戦闘が勃発する。世にいう「禁門の変」である。
長州藩兵の京への侵入を防ぐべく、薩摩藩兵を指揮するのは、西郷だ。最前線にいたために流れ弾で足を負傷しながらも、西郷は巧みに藩兵を指揮。一時期は長州藩に押され気味だった戦況をひっくり返してしまう。
また慶喜も負けてはいなかった。いざやるとなれば腹を決めて、全軍を指揮した。慶喜は鷹司邸を焼き払うという大胆な決断を戦場で即座に下して、長州藩の最後の部隊を敗走させることに成功した。
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