そうして粘る薩摩藩に手を焼いているうちに、イギリス艦隊のほうが戦意を喪失。船の損傷を修理すると、鹿児島から横浜へと退去していった。あっさり退いた理由としては、イギリスはもともと戦争を想定していなかったため、石炭や食料が不足していたのではないかともいわれている。
惨敗必至の戦争のはずが、ふたを開けてみれば、イギリス軍の死傷者が63人(戦死13人、負傷50人)に対して、薩摩側の死傷者はわずか21人(戦死5人、負傷16人)。鹿児島城下が火の海となったため、約500戸が焼失したとはいえ、何とか引き分けに持ち込んだ。
大久保が初めて指揮をとった薩英戦争において、薩摩藩は大国イギリス相手に、大健闘したといえるだろう。
賠償金7万両は幕府を脅して調達
イギリスとの和平交渉が行われて、戦争終結から4カ月後には、薩摩藩からイギリス側に7万両(2万5000ポンド相当)が支払われている。ただし、慰謝料はあくまでも「遺族養育料」だと名目を変えることで、藩の面目を保った。しかも、7万両は江戸幕府から借りたものだった。
財政的な余裕がない幕府が渋る中、薩摩藩士の重野安繹は、老中の板倉勝静にこう迫っている。
「もし、7万両をお貸し願えないならば、仕方がありません。イギリス公使を斬って、私たちも切腹して果てます」
あまりにも無茶苦茶な言い分だ。そもそも、薩摩藩士がイギリス人を斬り殺したばかりに起きた国際問題である。ただでさえ、幕府は財政難のなか、すでに賠償金をイギリスに支払わされている。そのうえ、薩摩藩分の賠償金まで負担させられてはたまらない。
こんな非常識かつ思い切った提案を考える男は1人しかいなかった。大久保利通である。薩英戦争で指揮をとった大久保は戦後処理も一身に背負い、対応を任されることとなった。
大久保が、薩摩藩士の重野を老中の板倉の屋敷に遣わせて、こんなメチャクチャな提案をしたのは、何もダメもとでごねたわけではない。それがまかり通る状況だと踏んでいたからだ。
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