もともと海防意識が高かった薩摩藩は、ペリー率いる黒船が来航する前の嘉永3(1850)年に天保山砲台をすでに完成させていた。河口を埋め立てた砂揚場に位置することから「砂揚場砲台」とも呼ばれたこの砲台から、薩英戦争の第1弾が発射される。砲撃を命じたのは、大久保だ。
戦争の準備をしていなかったイギリスからすれば、寝耳に水といってよい砲撃だった。イギリスは35門もの砲を装備したユーリアス号を持ちながらも、艦内では、幕府から受け取った金貨45箱を爆薬庫の前に積んでしまっている、というありさまである。
イギリスは初弾の発砲までに実に2時間も要してしまう。その間、砂揚場のほか、大門口、南波戸など10カ所、合計85門を持つ薩摩藩からの攻撃を、イギリス軍はただ受け続けることになった。
そのうえ、ユーリアス号とパーシューブ号はよりによって、桜島にある袴腰砲台の真下に、停泊していた。当然のことながら、集中砲火を浴びることになる。準備不足どころか、戦争が想定外だったイギリス軍に対して、大久保は結果的に、見事な奇襲攻撃に成功したといえよう。
大久保はイギリス艦隊を恐れて腰を抜かした?
薩英戦争をのちに振り返った大久保が、好んで話したエピソードがある。戦闘の火蓋が切られる前、大久保が屋根に上って、イギリス艦隊を視察しようとしたときのことだ。こんなふうに話している。
「英国艦隊を視察しようと屋根に上ったら、足を滑らせて落ちてしまってね。その様子を見られて『大久保はいつも偉そうなことを言っているくせに、艦隊を恐れて腰を抜かした』と噂され、とても困ったものだ」(『甲東逸話』)
ひと際、冷静に物事を見ていた大久保からすれば、「見くびられたものだ」と苦笑するほかなかったに違いない。この経験から「人は途方もないところで、途方もないことをいわれるものだ」と結論づけている。何かと批判された大久保なりの諦観も感じる言葉である。
さて、意外にも序盤は薩摩藩に有利に進んだ薩英戦争だったが、もちろんイギリス艦隊もやられっぱなしではない。少しずつ態勢を整えて反撃を開始。ユーリアス号を先頭にして、薩摩藩の砲台を次々に破壊していく。
とりわけ驚異的だったのが、イギリスが誇る最新式のアームストロング砲である。射程距離は4キロにもおよび、旧式の球形弾を使用する薩摩藩の大砲に比べて実に4倍を誇った。
射程外にさえいれば、イギリス艦隊は攻撃を受けることはない。そもそも挑むこと自体が無謀な戦いである。冷静さを取り戻したイギリスを前に、薩摩藩の命運も尽きたかに見えた。だが、大久保の指揮によって守備を固めて、一点突破で隙を狙ううちに、戦況は意外な方向へと転がっていく。
(第13回につづく)
【参考文献】
大久保利通著『大久保利通文書』(マツノ書店)
勝田孫彌『大久保利通伝』(マツノ書店)
松本彦三郎『郷中教育の研究』(尚古集成館)
佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)
佐々木克『大久保利通―明治維新と志の政治家(日本史リブレット)』(山川出版社)
毛利敏彦『大久保利通―維新前夜の群像』(中央公論新社)
河合敦『大久保利通 西郷どんを屠った男』(徳間書店)
家近良樹『西郷隆盛 人を相手にせず、天を相手にせよ』 (ミネルヴァ書房)
渋沢栄一、守屋淳『現代語訳論語と算盤』(ちくま新書)
鹿児島県歴史資料センター黎明館 編『鹿児島県史料 玉里島津家史料』(鹿児島県)
安藤優一郎『島津久光の明治維新 西郷隆盛の“敵"であり続けた男の真実』(イースト・プレス)
萩原延壽『薩英戦争 遠い崖2 アーネスト・サトウ日記抄』 (朝日文庫)
淺海武夫、平間洋一『ドキュメント生麦事件 英国から見た薩英戦争』(生麦事件参考館)
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