生活が苦しく、刀を担保にして借金をしても、病気の母と幼い妹3人を養うのは難しく、手紙でこう懇願したこともあった。嘉永4(1851)年6月28日付の書簡なので、薩英戦争から約10年ほど前のことで、大昔の話ではない。
「赤面する次第ですが、残りの支払いを延ばしてもらえないでしょうか。お願いします」
暗いトンネルは必ずいつか抜ける。大久保はそう信じていたのだろう。
実際のところ、尊王攘夷一色となった京の情勢は少しずつ変わりつつあった。大きなきっかけとなったのが、文久3(1863)年5月11日未明に長州藩が単独で攘夷を実行したことにある。長州藩はあろうことか、下関海峡でアメリカの商船を砲撃したのだ。
ついに決行された攘夷に、朝廷内外の攘夷強硬論者が大いに盛り上がる中、そんなムードに辟易していた人物がいた。異国嫌いのはずの孝明天皇である。
孝明天皇は、幕府が勝手に結んだ諸外国との通商条約の破棄を望んではいたものの、過激な攘夷は本意ではなかった。孝明天皇が理想としたのは、あくまでも幕府と協調したうえでの攘夷である。攘夷活動が勢いづくのを見て、わざわざこんな表明をし、バランスをとろうとさえした。
「いささかも徳川幕府を除外する考えは毛頭ももっていない」
江戸幕府にとって代わる野心などない孝明天皇にしてみれば、自分を担いで倒幕しようとする尊王攘夷派の動きは、迷惑でしかなかった。何とかブレーキをかけたいと、孝明天皇が頼ったのは、やはり薩摩である。
勅命に腰を浮かした島津久光を止めた大久保の算段
長州藩が攘夷活動に踏み切ってから、孝明天皇は薩摩藩の島津久光に内命を伝え、さらに上京を求める勅命を下している。
「尊攘派の暴論をおさえるため、汝の上洛を待つ」
再び、薩摩が朝廷に頼られる格好になり、好機が巡ってきたかに見えた。だが、腰を浮かしかけた久光を制したのは、いつでも冷静な男、大久保である。
「たとえ勅命をたまわったとしても、十分な対策もたず、上洛するのはいかがなもので、ございましょうか」
大久保は「今、上洛したらかえって害になる」として「いましばらくの間、上洛はお待ちくださいませ」と久光に意見している。
ちょうどイギリス軍艦が鹿児島を目指しているところで、上洛どころではないとはいえ、天皇の意向を無視するなど本来ありえないことだ。それでも大久保は「飛びついてはいけない」と判断し、久光を説得。薩摩藩に押しとどめている。
自分たちに風が吹いてきたならば、慌てなくても、さらによい状況が訪れる。これもまた、大久保なりの政局の読み方である。易々とは動かないことで、薩摩藩の確固たるポジションを確立しようとしていた。
こうした大久保の冷静な判断が、薩英戦争でも発揮されることになる。
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