34歳で死に直面「大久保利通」襲った想定外の事態 実務能力の高さをいかんなく発揮した矢先の恐怖

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再び京に向かった大久保には、阻止しなければならないことがあった。大久保らが朝廷と結んで、幕府に突きつけた3つの政治改革について、もう一度、おさらいしよう。

第一策 将軍が、すぐに諸大名をひきいて上洛し、朝廷と攘夷の方策を協議すること
第二策 豊臣氏の例にならって沿海の五大藩を五大老に任命し、国政と攘夷の責任をとらせること
第三策 一橋慶喜を将軍後見職とし松平慶永を大老として幕政を改革すること

薩摩藩が望んだのは第三策であり、第一策と第二策は岩倉具視が追加したものである。薩摩藩が力を持ちすぎないための策略だったが、長州藩を筆頭にした尊王攘夷派がこれだけ勢いがある中では、むしろ危険な条項となっていた。

なにしろ発案者の岩倉自身が、台頭する尊王攘夷派によって失脚。官職を辞して、一切の地位を失ったうえで、辺鄙な岩倉村に蟄居させられている。あまりの情勢の変わりように、大久保もさぞ驚いたに違いない。

そんな状況の中、将軍の家茂を上洛させることだけは、避けなければならなかった。上洛した将軍に対して、朝廷、ひいては孝明天皇が、およそ不可能な攘夷を命じることは、火を見るより明らかだからである。もし将軍が勅命に背いて断れば、いよいよ朝敵の汚名を着せられ、薩摩が主導するかたちでの朝廷を通じた幕政改革はすべて水の泡となってしまう。

いまや尊王攘夷一色に染まる京のムードに、将軍の家茂を巻き込むわけにはいかない。薩摩藩のみならず、日本全土に多大な悪影響が及ぶと大久保は考えたことだろう。

将軍上洛を止めるために奔走する大久保

上京した大久保は、近衛忠照と忠房の父子や中川宮朝彦親王、中山忠能、正親町三条実愛らを訪ねた。将軍の上洛には反対だと熱弁を振るう。

だが、すでに京では攘夷思想が蔓延している。どうもうまくいきそうもないと見ると、大久保はただちに江戸へと向かった。将軍上洛の先発を務める政事総裁職の松平慶永(春嶽)や土佐藩主の山内容堂など、江戸を出発する側を押し止めるためである。

大久保は鹿児島にとどまる久光と連携をとりながら、幕府の老中や春嶽らとの意見調節に奔走。なんとか将軍の上洛だけは阻止しようとした。だが、もし、ここで将軍の上洛を中止したならば、京の攘夷論者はますます過激な行動に出るかもしれない。

そんな京からの情報をキャッチする中で、大久保は方針を改める。

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