通説では、小牧長久手の戦いのあと織田信雄と和睦し、家康を孤立させた秀吉は、徳川討伐の準備を進めるものの天正の大地震で、その計画を中止したとあります。その後、秀吉は方針を大転換して家康の懐柔に全力をあげた、というのが一般的な解釈です。
しかし秀吉は、本当に大地震だけで徳川討伐を諦めたのでしょうか。そこにフォーカスし考察していきます。
天正の大地震の影響は徳川領内には比較的少なかったようですが、長引く戦いの連続で、徳川領内は荒廃しきっていました。また信濃での真田昌幸の反乱などもあり、徳川の状況は極めて深刻に。秀吉がその気なら、時期さえずらせば徳川討伐も可能だったでしょう。なぜ討伐しなかったかの理由は、秀吉に臣従した後の家康の扱いから垣間見えます。
早くから秀吉の右腕とされた家康
秀吉は、家康が上洛すると、すぐに正三位に叙任させました。そして、その1年後には、従二位・権大納言に昇格させます。これは、秀吉の弟であり、豊臣政権のナンバー2である秀長と同じ位です。秀吉は、織田家からの権力奪取をする際に朝廷の力を利用しました。自身も関白の位につき、武士社会においても朝廷での位を権力の秩序としたのです。
これは農民出身だった秀吉が、己の野心を正当化する方法でした。それゆえ豊臣政権における朝廷の官位は、そのまま政権内の評価に一致します。その意味では家康は、臣従した初期から秀長と並び豊臣政権のナンバー2として扱われたわけです。
とすると秀吉にとっての徳川征伐は、あくまでも家康を屈服させ配下とするための方法だったと考えられます。
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