1543年生まれの朝日(旭)姫は兄・秀吉の6歳下で、父は竹阿弥で母はなか。秀吉とは異父妹にあたります。朝日姫は(当時は姫とは呼ばれていなかったでしょうが)農民として両親とともに暮らしていました。
兄の秀吉は早くから家を離れていたので、彼女にとっては遠い存在だったでしょう。秀吉が信長に取り立てられ出世していくと、朝日姫の3つ年上の兄である秀長も武士として取り立てられ、家を出ます。
朝日姫の最初の夫・佐治日向守(副田甚兵衛という説もあります)も秀吉に仕えることになり、彼女の人生は一変していきました。
戦局を一変させた天正の大地震
小牧長久手の戦いでは局地的に敗れた秀吉でしたが、家康と同盟していた織田信雄と講和し、家康との軍事対決をいったん終わらせます。すると、家康による秀吉包囲網の西側の柱だった雑賀・根来衆、四国の長宗我部元親を屈服させ、さらには北陸の佐々成政も降し、家康は孤立状態に。
そして秀吉は関白の宣下を受け、織田家の重臣としてではなく、朝廷という国家権力を背景に自身の政権の正当性を手に入れることに成功します。この時点での秀吉の対徳川政策は「討伐」の二文字でした。
このころ家康は、信濃では真田昌幸に手こずり、領内は相次ぐ戦によって荒れ果て、さらには重臣の石川数正が秀吉に寝返り、家康自身は背中の腫れ物に苦しむなど、最悪と言っていい状態に。この状況を見た秀吉は一気に攻め滅ぼす計画を立て、その準備にかかっていました。まさに絶体絶命でしたが、ここで「天正の大地震」が家康を救うことになります。
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