石川数正は幼少のころから松平元康(家康)に仕えていた側近中の側近です。元康が今川家の人質だったころも、9歳年上の数正は駿府に随行していました。
1560年、数正が27歳のときに桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られ、これを契機に元康は松平家の独立を目指します。
ここで問題になったのが、元康の妻子でした。妻の瀬名(築山殿)、長男の信康、長女の亀姫は駿府に残されていたからです。数正は、このとき今川家の重臣・鵜殿長照の2人の息子と、瀬名・信康・亀姫の交換という難しい交渉を見事に成功させます。
さらに今川家から独立したことで、西の織田家と同盟を結ぶ必要が生じました。このときも数正は松平家の代表として織田方と交渉し、対等な形での同盟を成し遂げます。武骨者の多い三河衆のなかで、数正の外交官としての能力は貴重でした。
厚い忠誠心で家老に任じられる
数正の活躍もあり独立を果たした元康に、内政での危機が訪れます。
「神君三大危機」の1つ、三河一向一揆の勃発です。このとき多数の家臣が家康に背き、一向一揆に加わりました。数正の父・康正も元康から離反しました(一説には既に死去していたともあります)が、数正は浄土宗に改宗して一揆の鎮圧に努めます。
この厚い忠誠心と類まれなる外交能力を買われ、数正は叔父の石川家成とともに家老に任じられました。元康による信頼の厚さは、数正を嫡男・信康の後見人に指名したことからもわかります。この人事で数正は、岡崎衆の筆頭になりました。
数正は駿府にもいたため、正室であり信康の母である築山殿もよく知っていたという事情もあったのかもしれません。
数正は外交や内政に長けているだけでなく、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど主要な合戦には全て出陣し武功をあげています。浜松の酒井忠次と岡崎の数正は、まさに徳川(松平)家の両翼と呼ぶべき存在だったのです。
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