順調だった数正の人生に、暗い影を落とす事件が起こります。それが、家康の嫡子・信康と正室・築山殿の事件です。信康・築山殿が武田と内通していると、信康の妻であり信長の娘である五徳が父・信長に密告したことから信康及び築山殿の処罰が決定し、家康は信長の命に従わざるを得なかったというものです。
信康の後見人である数正にとって、これは致命的な落ち度でした。ちなみに、この事件の4年前にも武田勝頼による工作で大賀弥四郎が謀反を企てた事件があり、このときは大賀弥四郎らが極刑に処せられました。
家康は、信長に申し開きをするために重臣の酒井忠次を信長の下へ送ります。忠次は結局、ここで申し開きができず、家康は信長の圧力に耐えかねて妻子を殺すことを選択したというのが通説です。
しかし違和感があるのは、もし家康が本当に信康・築山殿を救うつもりなら、なぜ数正を使者に立てなかったのでしょうか。
数正は、かつて今川氏真の下から信康・築山殿を救い出した先例もあり、何よりも織田・徳川の同盟をまとめ上げた徳川家随一の外交官です。
そして、信康の後見人という当事者でもあります。
家康からの信頼が一際厚かった数正
その数正を差し置いて浜松側の重臣である忠次を送ったのは、じつは家康自身が信康・築山殿の処罰を考えていたからではないでしょうか。信長には、信康が信長の婿であるという関係上、許可を得るために忠次を送ったとも考えられます。
それを裏付けるかのように、後見人である数正は罰せられることはなく岡崎城代に任じられました。これは家康からの信任が厚いことを示しています。
しかしながら、嫡男の自害という事実は重く、岡崎でも信康の側近らの粛清もあり、数正の家中での評判は良いものではなかったようです。数正は次第に家中で浮いた存在になっていきます。
それでも家康は数正への信頼を変えることはなく、また対外的にも徳川家を代表する重臣の一人でした。本能寺の変直前の安土城での信長の接待にも招待されていますし、その後の堺への見物にも同行、伊賀越えの際も家康に付き従っています。
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