まだ20代だった信長の後継者を襲う悲劇的な最期 「織田秀信」天下人に翻弄され関ヶ原の前に降る

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どうする家康 織田秀信 三法師
三法師(右/後の織田秀信)には過酷な運命が待ち構えていました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、いよいよ天下分け目の「関ヶ原の戦い」を迎えます。この大戦には両軍に注目に値する人物が多数登場しますが、おそらくストーリーの展開上、あまりフォーカスされない人物もいるでしょう。そこで3週にわたり、関ヶ原の戦いを彩る注目人物について『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。第2回は織田信長の後継者として関ヶ原の戦いに挑んだ、織田秀信です。
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織田秀信は1580年、織田信長の後継者・織田信忠の嫡男として生まれました。母は、あの武田信玄の娘・松姫という説もあります。もしも、その説が真実であれば祖父に織田信長と武田信玄をもつ超サラブレッドということに。この秀信の幼名は三法師と言います。

三法師が3歳のときに、本能寺の変が起こりました。ここで彼は祖父・信長と、父・信忠を失うことになります。このとき三法師は岐阜城にいたのですが、変を受け清洲城へ移動しました。その後、織田家の家督を巡って羽柴秀吉、柴田勝家らによって会議が行われます。世にいう「清州会議」です。この会議によって三法師は、3歳で織田家の当主となります。

変遷する三法師の立場

その後、三法師は当主として安土城に移るはずでしたが、ここで問題が起こりました。信長の3男・信孝が三法師を岐阜城に抱え込んでしまったのです。信孝は柴田勝家とともに反羽柴秀吉の立場でした。

これに窮した秀吉は、信長の次男・織田信雄に接近し、清州会議で決定した三法師の家督を取り消して暫定的に信雄に家督を相続させるという荒業にでます。この後、柴田勝家は秀吉に敗れ、信孝も自死しました。

ここから三法師の扱いは複雑な経緯を辿ります。信雄は、一度は秀吉と対立し徳川家康を巻き込み全面対決しますが、結果的には秀吉にほぼ降伏と言っていい和睦をしました。ここで秀吉と織田家の力関係は完全に逆転します。

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