徳川家康が上杉征伐のために諸将を率い出陣した隙を狙って、石田三成は挙兵しました。家康は、自分が留守の間に三成がなんらかの動きをすることは予想していましたが、毛利輝元と宇喜多秀家という五大老の2人までもを巻き込んで挙兵することは、おそらく想定外だったでしょう。
三成は前田玄以、増田長盛、長束正家ら豊臣三奉行を動かし、家康への弾劾状である「内府ちがひの条々」を全国の大名宛に送付します。これにより家康を反逆者とし、政権内でのクーデターを成功させます。このあたりの手際のよさは、有能な官僚である三成ならではのものです。
さらに三成は、三奉行を介して大坂や伏見にいる諸将の妻子を人質に差し出すよう命令を下し、続いて伏見城を預かる鳥居元忠に城の明け渡しを迫ります。
後手に回ってしまった家康
家康は、この段階では三成に先手を取られ後手に回りました。江戸にいた家康は上杉征伐を中止せず、そのまま会津に出陣します。これは7月19日のことで、三成の挙兵から1週間ほど経っていました。この行動には重要な意味があります。
会津征伐を中止したら、参陣していた諸将が大坂もしくは所領に戻って、三成につくかもしれません。そうすると家康は東西の敵を一手に引き受けることになります。それは家康にとって、どうあっても避けたい最悪の事態でした。
家康にしてみれば、会津征伐のための兵力をそのまま対三成に転用できるか否かの重要局面が訪れていたのです。ここで家康は会津征伐を計画どおり進めるという体で、諸将を小山に集め、軍議を開くことにしました。
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