NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第46回は、関ヶ原の戦いの前に82人の外様大名に手紙を出すほど、家康が書状を重要視していた理由を解説する。
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書状を重視して書きまくった
原書がなく、写ししかないために、本当に本人が書いたものなのかどうか。研究者の間でも見解が分かれているという。上杉景勝の重臣である直江兼続が、徳川家康を辛辣に批判した書状、いわゆる「直江状」のことだ。
正確には、家康に宛てられたものではなく、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶に宛てて書かれたものだ。
発端は、上杉景勝が家康の求めをスルーし続けて、大坂になかなかやってこないことにあった。景勝には「武器を集めて謀反をたくらんでいる」という疑いもあり、家康としては、このままにしておくわけにはいかない。
かつて豊臣秀吉のもとでも外交役を務めた西笑承兌が、家康の意を受けて、上杉側にアプローチする。その書状に対する上杉側の返事が、兼続によって書かれた「直江状」である。
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