NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第42回は、秀吉に仕える中で、幾度となく難事に直面した家康の対応力を分析する。
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いきなり国替えを言い渡した秀吉
小田原征伐において、徳川家康は豊臣秀吉から先鋒を命じられた。家康の領地が北条領に隣接していたためだが、小田原城が落城すると、状況は一変することになる。
家康は秀吉から関東移封を命じられ、これまで統治してきた領地から離れなければならなくなったのである。『三河物語』によると、秀吉は次のように家康に告げたという。
「国替えをなされるなら、関東に替えられよ。いやだとお考えならそれでよい。どうなりともお考えのままだ」
言葉は柔らかいが、権力者の「いやだったらいいよ」という言葉を鵜呑みにしてはいけないのは、今も昔も同じである。
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