「秀吉に突然激怒」朝鮮出兵で家康がキレた真相 何度も難事を切り抜ける、家康の凄い対応力

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1度目の文禄の役(1592〜1593年)では約16万人、2度目の慶長の役(1597〜1598年)では約14万人の兵が動員されるが、戦は膠着状態に。合戦に決着をつけるべく、秀吉自身が朝鮮へと乗り込もうとしている。『徳川実紀』によると、秀吉は鼻息荒く、こう息巻いたという。

「これでは合戦がいつ終わるかわからない。私が自ら30万の大軍を率いて朝鮮へ渡り、前田利家と蒲生氏郷を左右の大将として、3手に分かれて、朝鮮は言うに及ばず、明国にまで攻め入り、異国の者どもをことごとく、皆殺しにしてくれよう」

どうする家康 大河ドラマ
朝鮮出兵のために築城された名護屋城。写真は跡地(写真: たき / PIXTA)

そして「日本のことは徳川殿がおられれば安心である」とまで言ったという。家康からすれば、当然、無謀な朝鮮出兵は避けたいところ。願ったりかなったりの秀吉の言葉だったが、ここで迂闊に喜ぶ家康ではない。

家康いきなり怒り出し、難事を切り抜ける

かといって「恐れ多い」と謙遜するのもなんだか嘘くさい。家康は「いきなり怒り出す」という戦法で、この場を切り抜けている。

「今異国で戦が起こって殿下(秀吉)が御渡海されるのに、私1人が諸将の後に残り留まり、むなしく日本を守れというのですか。微勢であっても手勢を引き連れ、殿下(秀吉)の御先陣を務めたい」

怒りの感情は、言葉にリアリティをもたせる。「日本を任せる」という秀吉に「たとえ殿下(秀吉)の仰せであっても引き受けがたい」とまで家康は言い切った。まるで野心などないというポーズを見せたのである。

その後、同席していた浅野長政が、家康に同調して秀吉の渡航に反対。しかし、勢い余ったのか、長政が秀吉に「狐と入れ替わっているのでしょう」と暴言を吐いて、場は騒然……。結局、秀吉は朝鮮に渡ることをあきらめて、もちろん、家康が朝鮮に派遣されることもなかった。

実際に朝鮮に攻め入ることなく、やる気だけは巧妙に打ち出した家康。朝鮮出兵によって豊臣政権が弱体化するなか、家康は兵力を温存することができた。このことが、のちのちに効いてくることになる。

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