NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第38回は、家康が秀吉に従った背景を解説する。
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とまらない秀吉の要求
「小牧・長久手の戦い」が終わると、徳川家康は羽柴秀吉の要求に従って、次男の於義伊(おぎい)を養子として差し出したが、それでも相手の要求はとどまるところを知らなかった。
上洛を求めてきたうえに、さらなる人質を要求してきたのだ。秀吉は家康を上洛させて、自身への臣従を誓わせようとしていたのである。
秀吉に従うべきか否か――。酒井忠次や本多忠勝が秀吉との対決も辞さずとするなかで、石川数正は「秀吉と融和すべき」と主張して、家臣団のなかで孤立。妻子とともに出奔して、秀吉のもとへと向かってしまった。
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