2016年に発刊された『徳川家康』 (笠谷和比古著、ミネルヴァ書房)には、「われ一人腹を切て、万民を助くべし」というサブタイトルがつけられており、上記の『三河物語』での家康の言葉からとっていることがわかる。本書では、家康が上洛に応じた理由として、従来の見方ではなく、「三位中将」という朝廷の官位が秀吉側から提示されたから、としている。
すでに秀吉が最高位である「従一位関白」を手に入れているなかで、官位だけを理由に上洛を決めたとは考えにくいようにも思うが、家康が、朝廷官位制度を重視していたことも確かだ。なにしろ、家康はかなり早い段階から正式な叙位任官を受けていた。上洛を決める後押しにはなったのかもしれない。
上洛を決意して大阪城で秀吉と対面
そんな紆余曲折を経て、家康は天正14(1586)年10月20日に岡崎城を出発。27日に上洛を果たし、大阪城で秀吉と謁見。長篠の戦いから実に11年ぶりの対面……と思いきや、実はその前日の26日、家康はあてがわれた豊臣秀長の別邸を宿所とした。
『家忠日記』によると、そこに秀吉がふいに訪れて、家康を奥座席につれていき、存分に話し合ったという。
『徳川実紀』では、何を話したかまで記されている。秀吉は家康に「心から本当に自分に従っている者はいない」と胸中を吐露。胸襟を開いて本音を覗かせるのは、秀吉のいつものやり口だが、家康にこんな懇願をしている。
「秀吉に天下を取らせるのも失わせるのも、家康殿の御心一つにかかっている」
だから、みなの前でどうか恭順の姿勢を示してほしいと、秀吉は頼み込んでいるのだ。どこまで本当にあった話かはわからないが、確かに人心掌握に長けた秀吉ならば、そんなことを言い出しかねない。
翌日、家康は改めて秀吉と対面。ついに秀吉に臣従することになった。家康が44歳、秀吉が50歳のときのことである。
【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
野田浩子『井伊家 彦根藩』(吉川弘文館)
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