そんな家康の問いかけに対して、重臣たちはどう答えたのか。やはり秀吉のもとに家康が上洛することへの抵抗感は強かったようだ。『三河物語』によると、酒井忠次ら重臣はこう訴えている。
「上洛なさるのは、道理に合わないお考えです。ぜひ、お考え直してください。断交することになっても、かまわないではありませんか」
断交もやむなしとは穏やかではない。これでは、外交役として秀吉の恐ろしさをよく知っている石川数正は、さぞ居心地が悪かったことだろう。
『徳川実紀』のほうでは、家臣たちの訴えはもう少し詳しいものになっており、秀吉と戦うことになったときの想定についても言及している。
「秀吉の心中はまだわかりません。上洛しないことを憤った秀吉が大軍で攻めてきたとしても、秀吉のやり方は姉川、長久手で見知ったのでそう恐れることはありません」(『徳川実紀』)
大きなビジョンを示して重臣たちを説得
強気な家臣たちだが、家康の腹はすでに決まっていたようだ。それでも独断専行はできるだけ避けたい。『三河物語』では、次のように家臣たちを説得しようとしてる。
「私1人が腹を切って、多くの人の命を助ける。お前たちも、決してなんだかだといわないで、謝罪をして多くの人の命を助けよ」
『徳川実紀』では、家康の上洛を決意した理由がより詳細に書かれている。「お前たちの忠告は非常に感心である」といったん受けとめてから、次のように言ったという。
「日本国内の乱はすでに100年あまりに及んでいる。天下の人民は1日も安らぐことはなかった。けれども、今日、世の中はようやく静かになろうとしているが、そこでまた私が秀吉との戦いにおよべば、東西にまた戦が起きて、人民が数多く亡くなることは、とても痛ましいことだ。ならば、今、罪がないのに失われようとする天下の人民のため、私の命を落とすのは大したことではない」
これには家臣たちも「そうお考えでしたら、もっともでございます。ご上洛なさってください」(『三河物語』)、「そこまでお考えが定まっているのであれば、私たちなどがまた何か申し上げることがあるでしょうか」(『徳川実紀』)などと応じたという。
以上のように『三河物語』や『徳川実紀』にしたがえば、強大な秀吉と戦えば、民衆に甚大な被害が及ぶことを家康は危惧。秀吉が妹や生母まで差し出したこともあり、上洛については自分が譲ったほうがよいと判断したことになる。
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