徳川家康、桶狭間後に「今川氏を見限った」真の理由 今川義元が討たれた直後は織田と戦っていた

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織田信長と今川義元の像
名古屋市の桶狭間古戦場公園にある織田信長と今川義元の像(写真:まちこ/PIXTA)
NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送が始まり、「徳川家康」に注目が集まっている。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた徳川家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。
家康を取り巻く重要人物たちとの関係性を紐解きながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第6回は、「桶狭間の戦い」の後、今川方だった家康が織田方についた真相を解説する。
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勢力を拡大したのに評価が厳しい今川義元

「歴史は勝者によって作られる」

そう言われることがあるが、少なくとも敗者にはかなり手厳しい。大軍を率いる名門が、少数の新興勢力に負けたとなれば、なおのことである。

永禄3(1560)年、「桶狭間の戦い」で勝利すると、織田信長は華々しく歴史の表舞台に現れることになる。大軍にもかかわらず無残に敗れたのは、総大将の今川義元が率いる今川氏だ。開戦してまもなく、義元の首が討ちとられてしまった。

今川氏の家督はすでに嫡男の氏真に譲られていたが、まだ経験は不十分で、いわば「当主見習い期間」のようなもの。父の義元が息子の氏真に実権を移していくなかでの、まさかの出来事である。名門はみるみるうちに没落していく。桶狭間の敗戦から8年後の1568年、今川氏は事実上の滅亡を迎える。

そんな経緯を踏まえれば、今川義元は戦死によって没落を招いた張本人として、評価はおのずと厳しいものとなる。後世におけるフィクションにおいても、絶大な人気を誇る織田信長の引き立て役として、義元は散々な描かれ方をされてきたといってもよい。今川氏の勢力を最も拡大した功労者にもかかわらず、である。

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