勢力を拡大したのに評価が厳しい今川義元
「歴史は勝者によって作られる」
そう言われることがあるが、少なくとも敗者にはかなり手厳しい。大軍を率いる名門が、少数の新興勢力に負けたとなれば、なおのことである。
永禄3(1560)年、「桶狭間の戦い」で勝利すると、織田信長は華々しく歴史の表舞台に現れることになる。大軍にもかかわらず無残に敗れたのは、総大将の今川義元が率いる今川氏だ。開戦してまもなく、義元の首が討ちとられてしまった。
今川氏の家督はすでに嫡男の氏真に譲られていたが、まだ経験は不十分で、いわば「当主見習い期間」のようなもの。父の義元が息子の氏真に実権を移していくなかでの、まさかの出来事である。名門はみるみるうちに没落していく。桶狭間の敗戦から8年後の1568年、今川氏は事実上の滅亡を迎える。
そんな経緯を踏まえれば、今川義元は戦死によって没落を招いた張本人として、評価はおのずと厳しいものとなる。後世におけるフィクションにおいても、絶大な人気を誇る織田信長の引き立て役として、義元は散々な描かれ方をされてきたといってもよい。今川氏の勢力を最も拡大した功労者にもかかわらず、である。
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