ましてや、義元の後をついだ12代当主となる氏真については、目も当てられない。例えば、甲州流の軍法や兵法を伝える兵書『甲陽軍艦』では「氏真公、あしき大将にて」「氏真公無分別にて」と罵られている。『甲陽軍艦』が江戸時代の初期に成立したことを思うと、その頃にはすでに、氏真の歴史的な評価が定まりつつあったといってよい。
そんな「暗愚」とされた氏真を見限って、織田家についたことで台頭したのが、徳川家康である。しかしながら、家康は「桶狭間の戦い」後、すぐに織田側に味方したわけではなかった。
織田信長も驚いた家康の攻勢
「桶狭間の戦い」のあと、家康はどんなふうにふるまったのか。まだ家康が「元康」と名乗っていたころだが、この記事では「家康」で統一する。
家臣たちと大高城で休んでいる時に、総大将の今川義元が討たれたという知らせが、家康のもとに入ってくる。突然の事態に、松平家臣団を率いるリーダーとして、家康は難しい判断を迫られたが、動じることはなかった。情報をよく吟味してから、夜半まで待ってから兵を動かしている(前回記事『徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断"』)。
家康が目指したのは、妻子が待つ駿府ではなく、岡崎城である。今川の兵が撤退するのを見届けてから、家康は入城。実に10年半ぶりに岡崎城に返り咲くことになった。
しかし、家康は今川氏の駿府に戻ることもなかったが、織田氏にすぐに従ったわけでもなかった。三河と尾張の国境付近に兵を進めながら、織田軍と攻勢を繰り広げている。
おとなしく織田方に従うと思っていた信長は驚いたとし、『徳川実紀』では、次のようなことが書かかれている。「君」とは家康のことである。
「君は岡崎へお帰りになったあとも、織田方の軍勢と戦っていたので、信長にとっては思ってもみなかったことだった」
家康は、人質の身である自分を取り立ててくれた、今川義元への感謝を忘れなかったのだろうか。織田軍を相手に家康が「弔い合戦」をしたかのように、『徳川実紀』では書かれている。
そうだとすれば、なぜ家康は今川氏から離反したのか。
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