衝撃だった今川義元の死
「ゆっくり急げ」
もともとはラテン語で「Festina Lente(フェスティナ レンテ)」。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの座右の銘だったといわれている。
人生における大きな決断ほどそうだ。焦ってはいけないし、かといって、時機を逃してもいけない。ましてや、徳川家康の場合は、自分の人生のことだけではない。将軍になってからはもちろんのこと、青年のころから松平家を背負う当主として、家臣たちやその家族も含めて、命運を左右するような決断を下さなければならなかった。
永禄3(1560)年、桶狭間の戦いが起きると、人質として今川家の支配下にあった家康は、総大将の今川義元のもと、織田軍と戦うことになった。
ところが、家康が大高城で家臣たちと待機しているときに、あろうことか総大将の今川義元が、織田軍に討たれてしまった。合戦当日、5月19日の出来事である。まだ家康が「元康」と名乗っていたころだが、この記事では「家康」で統一する。
今川軍の兵力を思えば、義元の討ち死には、信じがたいことだったに違いない。だが、家康のもとには、伯父の水野信元から浅井道忠が使者として送られてきて、義元の討ち死は事実だという。さらに「織田勢が来襲する前に城から退くべし」と家康は使者から告げられている。
一刻も早く行動を起こさなければ、取り返しのつかない事態を招いてしまいそうだ。また、水野信元は、家康の生母・於大の兄にあたる。母が敵側の今川についているわが子の身を案じて、戦況をすぐに知らせたのだろうか。そんな思いもよぎったことだろう。
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