徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断" 想定外の出来事にもあわてず、状況を鋭く読む

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「捨て城ならば拾わん」

捨ててある城ならばもらおう――。様子を見たことで、家康は、最もスムーズな方法で岡崎城に返り咲くことができたのである。様子を見るべく大樹寺に入ってからわずか3日後、永禄3(1560)年5月23日のことだった。

家康が人質として岡崎城から駿府へと送られたのが、天文18(1549)年11月。実に10年半ぶりの帰還となった。

松平家の家臣を結集して西三河を制圧

その後、今川家は知立城や重原城からも撤退。家康はといえば、松平家の家臣たちを結集させながら、西三河を制圧していく。その一方で、織田軍とも抗戦を繰り返しているので、すぐさま、今川方を離れて織田方についたわけではなかった。

では、今川家からの離反を明らかにしたのはいつだったのか。1つのポイントとなるのが、永禄4年(1561)4月12日だ。今川氏真が「桶狭間の戦い」に参戦した鈴木重時と近藤康用に宛てた手紙(永禄10年8月5日付)のなかで、次のようにある。

「去酉年四月十二日岡崎逆心之刻」

「去酉年」は「永禄4年」のことであり、「4月12日」は正確には「4月11日夜半」ともされているが、この時点で「岡崎逆心」、つまり家康が謀反を起こしたと、氏真は手紙に書いている。

永禄4年4月12日は、家康が牛久保城を攻撃した日にあたる。牛久保城は東三河における今川氏の拠点だ。そのため、この日こそが家康が離反した日だと、少なくとも氏真は認識したらしい。

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