徳川家康、17歳で見せた「桶狭間」直後の"驚く決断" 想定外の出来事にもあわてず、状況を鋭く読む

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家康は今川家のもと14歳で元服し、17歳で初陣を迎えた。まさにこの間に義元から氏真への家督継承が行われている。義元からすれば、家康には「これから息子の氏真を支えてほしい」という思いがあったのではないだろうか。

そんな背景を踏まえれば、義元の突然の死は驚くべきタイミングではあったが、いずれ来る未来が早く来たにすぎないともいえる。このまま大高城にとどまれば、織田軍が襲いかかってくるだろう。急いで妻子を待つ駿府城に向かい、氏真を安心させてもおかしくはなかった。

だが、家康はこのときこそが、岡崎城に復帰するチャンスだと考えた。そこに家康の非凡さを感じるが、それだけではない。家康はいきなり岡崎城に向かうことなく、翌20日に、大樹寺(岡崎市鴨田町)へと入っているのだ。

今川軍の動きを予見しての「待ち」

なぜ家康は、すぐさま岡崎城に向かわなかったのか。それは、岡崎城には今川勢がとどまっていたからだ。それにもかかわらず、城内に入って今川勢とかち合えば、どうなるか。これまでどおり今川家に従って今後の行動について指示を仰ぐか、もしくは軍事衝突をして独立を勝ち取るかの2択となる。

とはいえ、このまま大樹寺にとどまっていても、どうしようもない。おそらく家臣たちから、家康は判断をせかされたのではないだろうか。少なくとも、私が家臣ならば、こんな宙ぶらりんな状態はまっぴら御免である。

だが、家康はこの状況は早々と変わると読んでいた。というのも、今川勢からすれば、総大将が亡き今、このまま岡崎城にとどまっている理由はない。早急に駿府に帰るべく準備をしているはずで、そのときにこそ動くべきだ、と家康は冷静に判断を下していたのである。

そんな家康の読みは的中する。今川勢は岡崎城から撤退し、駿河に立ち去っていった。家康はそれを確認してから、岡崎城に入っている。

『三河物語』で紹介されている言葉に、家康の狙いのすべてが込められている。

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