タワマン増殖で「西日すら当たらない」と嘆く旧住民たちの"現実" 中央区「勝どき」から失われたものはこんなにもあった

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勝どき
古い家屋の先に見える、勝どきのタワマン(筆者撮影)
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あっちにもタワマン、こっちにもタワマン。気付けば日本の街はタワマンだらけになった。
それもそのはず。タワマンは2024年末時点で全国に1561棟もあるという。その土地の生活、景観、価値を大きく変えてしまうタワマンだが、足元には地元の人たちの生活圏がいまも広がっている。縦に伸びるタワマンではなく、横に広がる街に注目し、「タワマンだけじゃない街」の姿をリポートする。
今回、散策したのは東京都中央区の勝どき。ビルの間で今でも昔ながらの商売を続ける人たちの話を聞いていると、タワマン開発の歴史が見えてくる。

タワマン集まる勝どきは埋立地

お隣の月島はもんじゃ通り、築地は市場で有名だが、勝どきはそれに比べると存在感が薄い。地名の元となっている勝鬨橋の名は知られているが、それ以外に思いつく名所はない。

勝どき
勝どきのタワマン群(筆者撮影)

このあたりは明治から大正にかけて埋め立てによって造られた地域だ。

「勝鬨をあげる」という言葉がある。戦いに勝利したときにあげる鬨の声のことを指す。1905年(明治38年)、日露戦争での旅順陥落を記念して、ここに「勝鬨の渡し」が設置された。その後、昭和になって橋が架けられることになり、勝鬨橋の名がついた。

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